(English)
We run on Desert road.
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ダフラオアシスを出発。今日もひたすら砂漠道走り。
と、ダフラを出る時に、女の子たちに絡まれた。いつものようにアエーシサンドイッチを朝食に買おうとしていたら、登校途中の女の子の一人がiPadでオイラたちのことを写真撮ろうとしているじゃないですか。ほお、iPadを使っているなんて・・・と興味が沸き、女の子に話しかける。いいところのお嬢さんらしい。
さて、その後、途中ではトラックのおじさんが売り物として大量に荷台に積んでいたコーラから一本抜き出してくれるし、休憩していたトラックのおじさんたちには、一緒にチャイをご馳走になったりした。
砂漠道で出会う人たちは、ホント、皆さん、いい人たちばかりだよ。
こういう<いい人たち>との出会いがあるから、過酷な砂漠道も楽しみながら走ることができる。やはり、救われるのは人の優しさによってだ。
ただ、この優しさってのが曲者で。なんていうのか・・・優しさを受けるだけの自分。これは返すべきなのかという葛藤にさいなまれることになる。
人の優しさというのは3つのレベルがあるという。一つ目は、損得を考えての優しさ。これは分かりやすい。自分が得をするから優しくするというやつだ。で、次のレベルが、損得抜きでの優しさ。そして最終レベルが、自己犠牲を伴っての優しさ。最終レベルは親が子に対して示す優しさで、子供のためなら親である自分はどうなってもいいという優しさ。これもこれでなんとなく分かる。
で、オイラの中では、ずっとこの2番目の優しさが謎だったんですよ。ラテンの国を走っている時から、ずっとこの2番目の優しさを受けてきて、なぜ、見ず知らずの他人に、損得抜きの優しさを施してくれるのかってのが、ホント感覚としてわからなかったんです。
が、最近ようやく、この優しさがなんなのか分かってきた。要は、<優しさ>って要素は、人間がコミュニティを円満に持続させていくために必要なことなのだ。優しさが、人間がコミュニティを築くために必要な機能だからこそ、人に優しくすると、単純に心地よい気持ちが生じる。人が一人では生きて行けず、コミュニティを築く必要がある厳しい環境で暮らす人たちが特に優しいということも、この理由で考えれば納得がいく。人が人である以上、人がコミュニティを作って生きていく生物である以上、そういうメカニズムが体内に内包されているのだ。つまり、人に無償で尽くすということは、気持ちがいいことなのだ。そして、単に気持ちがよくなるから、優しさという行為を行う・・・難しく考えなければ、そういう単純なものなのだ、きっと。人に優しくしたら、なんか気持ちよかった、そういう経験は誰しもが持つものでしょう。
感情で考えることを忘れ、損得を考えて行動することに毒されてきたオイラは、なかなかこの概念に到達するまでに時間がかかったのだが、わかってしまえばなんのことはない。当たり前っちゃ当たり前のことなのだ。それでも、その当たり前のことは、物事を全て損得で判断してしまう資本主義ベッタリの社会、特に日本などでは、気づくことができないことなんだとう思う。
これに気づくと、世の中捨てたもんじゃないって思えるのに。
旅をすることの意義は、この<優しさの理由>に気づくことなのかもしれない。これに気づけさえすれば、旅をしてよかったって思える。少なくとも、オイラは、この損得抜きの優しさにたくさん触れることができ、<優しさの理由>に気づけたのが、この旅最大の収穫だと思っている。
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