(English)
I moved back to Candy.
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さて、とりあえず、ここでの料理教室は十分に教えてもらうことを教わったので、キャンディに戻ることに。インドビザ受け取りまでには、まだちょっと時間があるし、海岸沿いには、ゴールの他にも町がたくさんあるので、いくつか海岸町を巡ろうかと考えたりもしたのだが・・・今の時期、海岸沿いはとにかく暑い。そろそろスリランカで得たことをまとめたいって気持ちがあるんで、涼しいキャンディに戻ったほうが、やる気がでるし、まとめが捗っていいかなと。スリランカでのカレー修行はもう十分だし。
ということで、バスに乗ってコロンボ経由でキャンディへ。一度通った道なので、なんの不安もない。日曜日なので、道も空いていてイライラすることはない。来る時は9時間近くかかったのに、今回はキャンディまで6時間くらいで到着してしまった。
さてさて、そんなバスの中では、いろいろ考え事をしてたので、忘れないように日記にメモメモ。
まず、チャリ旅とバックパック旅の違いについて。よく言われるのだが、バックパック旅は点の旅で、チャリ旅は線の旅だと。まったくその通りだと思う。で、点と線の違いは、旅のスタイルそのものの違いでもある。点の旅は、到着したその場所を楽しむだけのものとなるが、線の旅とは、移動を楽しむということになるのだ。つまり、同じ<旅>というくくりであるが、楽しむ対象が全く違うものになるのだ。
さらに、線の旅をチャリで行うと、自力で決められた交通機関ではないもので移動することで、偶然の出会いが多発することになる。一方、決められた交通機関で移動し、決まった場所に宿泊するバックパック旅は、偶然という自由度が少ない。もちろん、ヒッチハイクをしたり、あえて民泊してみたり、意識的に努力すれば、チャリ旅のような偶然を得ることもできる。が、チャリ旅ってやつは、そういうことを意識的にやらなくても、向こうからやってくるものなのだ。頑張らなくても、旅の偶然がやってくる。そういう旅を望むのなら、チャリ旅をした方がいい。
最近、長くバックパック旅をしている人たちが、チャリダーに転向するということがオイラの周りで相次いだ。これは、上に書いたようなことを求めてのことも一面にある気がする。
で、オイラ自身は、その逆をやってみた。チャリダーからバックパック旅へ転向してみたのだ。で、やってみた感想はというと・・・チャリ旅ってのは、飽きない。というのも、目的地に向かって走るということが、ある種タスクになっていて、達成感があるからだ。その点、バックパック旅は、達成感が薄い。だからなのか、だんだん、飽きてくる。いや、ま、それはタスクを設けていないからなのかもしれないが。オイラのように、<修行>というタスクを設定することで、バックパック旅も飽きないものになるかも。実際、バックパック旅になってもなんとか気力を上向きに持っていけているのは、カレー修行をせねば、というタスクがあるからだし。長くバックパック旅を続けて飽きているパッカーの皆さん、チャリ旅への転向ってのもアリですが、修行旅ってのへの転向も、おススメですよ。
さて、ただ、修行旅ってのには、ちょっとしたコツがありまして。オイラはタブラ修行を経て、修行旅に対するスタイルが変わった。以前のオイラだったら、いくら修行のためとはいっても、バックパック旅をしていたら、すぐに飽きていただろう。それが、飽きずに旅できるようになったのは・・・縦に掘り下げる旅の方法を身につけたからだ。オイラのコアは、<世の中の真理を知りたい>ということなんだと思う。知らないこと、ワカラナイことの法則が見え、分かってくることにゾクゾクする体質なのだ。
旅に出る前、研究者として働いていた頃は、そういう意味で、仕事自体は楽しかった。が、オイラ自身に、縦に掘り下げる技術がなかったため、技術ジャンルに関する表面的なワカラナイことを知ってしまったら、飽きてきてしまったのだ。そんな時にちょうど、石田ゆうすけさんの本と巡り会ってしまい、新たなる<ワカラナイこと>が提示されて、飛びついちゃったってワケなのだ。世界にはまだまだ知らないことがあるっていう、ニンジンが目の前にぶら下げられちゃったのだ。ということで、それに飛びついてチャリ旅を始めたワケだが、実は、それは単にワカラナイことのジャンルを変えただけだった。つまり、この旅というジャンルも、表面的に分かるようになれば、また飽きてくる可能性がある。実際、そのケはあった。場所を変えれば、それなりに新しいことが出てくるので、好奇心は起こるのだが、すぐにその好奇心がしぼむようになってしまったのだ。
一方で、世界は広い。行けば行ったで知らないことは出てくる。なので、国を変えれば、しぼんだ好奇心も再び活性化してしまうのだが・・・そういう方向で、<世の中の真理を知りたい>という欲望を満たしていっても、キリがないし、それは、研究者として、技術を表面的にとらえていた時と同じようなジレンマに陥るだけと気づき始めていたのだ。
そんな時に、やったのがタブラ修行だった。この修行で教えられたことは、物事を表面的に見て行くのが横の軸だとしたら、物事を深く縦の軸で掘り下げてみていく、という方法だった。
多重層理論というモノごとの見方があるのは、以前の日記で書いたことがあったような気がするが、ようやくこの本当の意味が掴めたのだ。
同じモノを見ても、ある情報を知らない状態で見るのと知ったうえで見るのでは見え方や感じ方が違う。つまり、ある情報を知ることで、それは新鮮な驚きをもって再び目の前に現れてくれるのだ。
つまり、横に探求しなくても、縦に探求していけば、飽きることはなかったのだ。そんなことは前から分かっていて、縦にも探求していっていたつもりだったのだが、それはつもりだった。縦への探求の方法が間違っていたのだから。
縦への探求の方法が分かり、面白さが分かった今、正直、横の旅をしなくてもよくなった。だって、オイラのコアである<世の中の真理を知りたい>という欲望は、縦の探求で、十分満たされるようになってきたのだから。
だから、旅はいつ終えてもいいや、という気持ちになれている。縦への探求方法を知らなかったら、すべての国を周らないと気が済まなかっただろう。今は、全部の国、数多くの国を巡ることが重要ではなくなった。
この縦への探求方法が分かっていれば、実は、旅に出なくてもよかったのかも、と思う。研究者として興味あるジャンルを掘り下げていけば、モヤモヤを抱えることもなかったんだと思う。
とは思うのだが、オイラ自身は旅に出たことは後悔なんてしていない。むしろ出てよかったと思う。横の軸で動かないと知り得ないことが多多あったし、それを知り得たのはオイラの財産。また横の軸で動かなかったら、縦の軸を掘り下げる方法に辿り着くこともなかったのだから。
自分探しの旅ではなく、自分が何者であるかは分かったうえでの旅だった。オイラが探していたのは自分ではなく、自分のコアをまっとうするための方法だった。それが、どこにあるかわからなかったのだから、ランダムウォークするしかなかったのだ。それが、<世界旅>の正体。
ただ、縦軸も旅ではある。この方法を最初から知っていれば、あえて横の旅をする必要はないと思う。タイのお坊さんに、瞑想を知っていれば、世界を旅する必要なんてないんですよ、と言われたのは、そういうことだったんだと思う。が、今の日本では、縦軸を掘り下げる方法を身につけるのが難しくなってきている気がするのはオイラだけなのだろうか?一つのことをじっくりやるより、ネットでいろんなことを表面的に見る方が楽。娯楽はいっぱいあるのだから、一つのことに固執する必要もない。その結果がオイラのようにモヤモヤを抱えてしまうことになるのだ。
横の旅は、楽しい。・・・のは最初だけだ。表面的にしか見れないのであれば、次第に全部が同じに見えてくる。縦の旅の方法を覚えれば、横の旅は必要なくなるし、あえて横の旅をしたとしても、飽きなくなる。
ただ、その場に訪れるというのが、典型的な横の旅。そこで現地の人に話しかけ生活様式などを聞き掘り下げるのが縦への一歩。さらに、歴史や文化を知るのが二歩。
ヨガやカレー探求も同じ。表面的に体を動かすだけだったり、カレーを食べるだけなら、典型的な横の旅。やり方や作り方を現地の人に習うのが縦の旅への第一歩。その上で、本を読んで知識を深めるのが第二歩目。さらに、それらの知識を自分のものにして、新たな関連を見出していくのが、第三歩目なのだ。第二歩目まではやっていた。けど、第三歩目からの掘り下げ方が分からなかったのだ。
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