Raza : Nacion
グアテマラの多様性 人種と国家

2009.03.21 / Guatemala(Livingston~Puerto Barrios) 本日自転車0km走行(船で19km移動): Total 7855km走行

(English)
  I leaved at Livingston by ship. I didn't ride bicycle today.



(Español)
  Hoy no subo en bicicleta.
 朝、Livingstonの町をウロウロする。黒人、スペイン系グアテマラ人、先住民グアテマラ人、欧米旅行者と、ここでは様々な人種の人とすれ違う。自転車で走っていると、地域地域によって住む人達が少しずつ変わっていくのを感じ取れるのが、興味深かったりするのだ。グアテマラの場合、シェラからコバン辺りまでの標高が高かった地域では、刺繍が入った厚手の衣装を着た先住民が多かった。コバンから、レース糸のようなもので編まれた薄手のウィビルを着た先住民を見かけるようになり、山間を抜け、平地になってから、褐色の肌の人たちをしばしば見るようになってきたのだ。そして、Livingston。ここではホントに黒人の方たちが多い。こうやって見てみると、グアテマラという国は面白いなぁと思うのと同時に、複雑さをも感じる。地域によって、これだけ違いがあるということは、豊かである反面、全体を統一する機軸を持つのが大変ということでもある。日本では一時期<愛国心>なるものがとりだたされていたが、ここグアテマラの人々は、何によって<国を思う>ことになっているのだろうか?ああ!この国には<家族>や<地域共同体>という強いつながりがしっかり残っているから、国という単位はあまり必要とされていないのかもしれない。<地域共同体>や<家族>を空洞化させられ、日本国という国単位でしか物事を進められなくなった日本的尺度とは、根本的に違うのか。地方分権が叫ばれている日本ですが、その本質である<地域が自分達独自の文化を形成する>意味を分かっている日本人がどれだけいるのだろう?地方分権とは<違う>ことを許すことなのだ。グアテマラのように、山間部と海岸部では「同じ国ですか?ここは?」と思われるほど違いがでることを豊かと捉えることなのだ。<違う>ことを許す土壌がちゃんと形成されるまで、日本の地方分権の本当の意味での成功は難しいでしょう。

 さて、ここからホンジュラスの港まで船で連れていってもらおうと思ったのだが、船のオフィスで聞くと、便はないとのこと。チャーターすれば行けるけど、高いよと言われた。しょうがないので、プエルト・バリオスという近くの港町まで出ることに。実はここLivingston、川と海(湾)に囲まれた陸の孤島なのだ。再び自転車で走るルートに戻るには、もう一度船にのらなければならない。プエルト・バリオスまでの船の切符を購入し、待つこと30分、船が到着し、乗り込む。今回は、自転車は完全に折りたたみ、手荷物状態にして積んでもらった。

 今回は、湾に出たので、昨日と比べて、波がガンガンあたる。激しく上下に動く船に乗りながら、「この衝撃で自転車が壊れてしまわないだろうか?船で自転車を壊したら、なんだか悔やみ切れないなぁ」なんて心配してました。30分ほどで、プエルト・バリオスに到着。自転車/荷物を岸に上げているとき・・・事件は起こった!船の兄ちゃんが積んだ荷物を岸に上げてくれていたのだが、な、なんと僕の寝袋を船と岸の間から海に落としてしまったのだ。まぁ、幸いというか、寝袋だったので、落とした後も、水面に浮かんでおり、簡単に拾うことができたのだが、これが重いバッグとか自転車だったら、確実に沈んでいた。ふー、あぶないとこだった。

 自転車の無事を確認した後、ホンジュラスへ行く船があるかどうか聞いてみた。どうやらここからもバスしかないようだ。しょうがないので、やはり自転車でホンジュラス入国をすることにし、今日は宿に入って休みます。部屋に鍵がない安宿で一泊。明日、国境越え出来るだろうか?