Udad y el cuerpo
水鳥の楽園を横目で見ながら都市と肉体について考えてみた

2010.07.30 / Argentina (Vedia付近~Rufino) 本日自転車77km走行 : Total 20336km走行
天気:雨のち曇のち晴 自転車折りたたみ:1 ネット:1
朝飯→パン 昼飯→ミラネササンド 夕飯→ハンバーガー / 宿→Hotel Amhuis Huasihiman (70ペソ)

(English)
 Today I thought feeling of body running by bicycle.



(Español)
 Hoy pensé sintiéndose de cuerpo que propone a bicicleta.
 雨に濡れたテントをたたみ、カバンに詰める。今日は宿に泊まって、宿で乾かすことにしよう。

 さて、昨日テントで<塚本図鑑>という映像を見たんです。この映像は、<六月の蛇>までの塚本晋也監督の作品を振り返るという企画もの。<鉄男>とか<TOKYO FIST>とか、パワー溢れる塚本監督の映画の根本となるテーマは<都市と肉体>ということだと解説されてまして。都市で生活するうえで、いかにして、肉体的感覚を取り戻すかということが、どの作品にも流れている、と。

 オイラ的には、肉体的感覚を取り戻す、ということに強く反応しちゃったワケです。そう、オイラが自転車で世界を走っているのは、肉体的感覚を取り戻すため、なのかもしれない、と。

 中南米を自転車で走っていると、郊外はひたすら自然が広がる空間となる。その空間を、むき出しの体一つで、走っていると、自然と自分の感覚を研ぎ澄ませなければならなくなる。太陽の熱、風の向き、匂い、周囲の音・・・それら全ての情報を敏感に感じ取り、次に体を動かすための判断材料にする。これは、非常に<肉体的>な作業なのだ。

 一方、町に入ると、<肉体的>な作業というより、<頭脳的>な作業を求められるようになる。記号化された町の情報を読み取り、判断しなければならないからだ。オイラが毎回町に入るときに感じる違和感は、きっとこの<肉体>から<頭脳>へと切り替えなければならない、判断感覚によるものなんだろう。信号により制御された車の流れ、全てに名前がつけられた通り道、全ては記号的に読み取らねばならない。さらに、宿という建物内に入ってしまえば、肉体的なセンサーは、ほぼ必要でなくなる。快適に調整された室温によって、肉体的センサーは緩みっぱなし。

 町がより高度化された都市であれば、もっと肉体的なものは必要とされなくなり、肉体感はどんどん希薄になっていくだろう。人間の最終進化形態は、肉体はなくとも、思考のみが永遠に機能する魂のような存在、なんていうSFによる未来世界が描かれているが、高度化された都市空間に住めるのであれば、人間の存在は、確かにその魂のような存在に限りなく近づいていくのかもしれない、と思う。

 実際に、日本、今の東京や横浜はそういう都市に、なりつつあるんじゃないかな。肉体を感じなくても生活できちゃう、都市空間。その空間にどっぷり浸かっちゃったら、運動不足でも、お腹がでてきちゃっても、肉体的に不便を感じないから、なんとかしようと思えない・・・ってのは、実は日本に居た時のオイラだったんです。家から出てすぐに車に乗って会社について・・・って肉体感覚をまったく発動させる必要がないほど、環境が肉体を包み込んでくれる空間で常に生活をしていて。そんな空間にどっぷりと浸かっていた一方で、肉体を使わないということに対して、どうしても、ウズウズしてしまう部分があったんです。このウズウズの元は、<このまま消えちゃってもいいのぉ>と叫ぶ、肉体的センサーたちの悲鳴だったのかも。

 とにかく、オイラの場合、このウズウズ感は、都市の外へ、自転車で出ることで解消できたんです。自転車で走ることで、肉体感覚を取り戻している感が心地よいというか。ちなみに、塚本監督の場合は、都市に居ながらこのウズウズ感を解消する方法を映画的に模索していて・・・肉体が鉄に犯されていく話であったり、ボクシングをモチーフにした血の匂いがする恋愛話に昇華させているんですが。

 と、まぁ、オイラ的に感じる、このウズウズ感は、都市がまだ肉体感を必要としていた頃に生まれ育ったオイラたち世代特有のものなのかもしれない、とも思うのですよ。もしかして、生まれた時から、肉体をあまり必要としない都市空間で生活をしている人たちは、このウズウズ感を感じないのかもしれない。それが<進化>なのかどうかは分からないけれども。そして、そういう人たちは、都市の外へ自転車で・・・ということは、共感の対象にはならないのかも。そうだとすると、ちょっと寂しい。

 な~んて、今日は、フラミンゴ等、水鳥たちが飛び交う湿地帯の中を走りながら一日、自然空間と都市空間における、肉体的感覚の使い方について思考してみたのでした。走っている時って、こういうことをボ~と考えてたりするんです。