What is happiness?
幸せ感

2011.10.24 / Tanzania(Zanzibar StoneTown) 本日 自転車0km走行 : Total 34304km走行
天気:晴 ネット:1
朝飯→チャパティ&オクラスープ 昼飯→ジャックフルーツ 夕飯→パキスタンカレー / 宿→Pearl GuestHouse(シングル17000シリング)

(English)
 Today I walked around Stone town. There were many happy people.



 ザンジバル、ストーンタウン。この町はなんかオイラの心をくすぐってくれる。この心のくすぐりはなんなのだろう、って考えてみた。

 それは・・・ゴチャゴチャした島の雰囲気がそう思わせてくれているような気がする。古びた建物、あちこちに捨てられているゴミ・・・こういった風景が大好きなオイラ。この風景は、オイラの中にある、ある感情をくすぐるのだ。

 幸せってなんだっけ?明石屋さんまさんのポン酢醤油のCM(古い!?)が、世相をズバリ切っていたように、日本人は、ある時期から、幸せのイメージを持てなくなってきた。オイラ自身、日本での生活は幸せ感のあるものだったか、と言われると、ビミョーだったとしか答えられない。好きな仕事をさせてもらい、余裕のある生活が送れるほどの給料をいただき、欲しいものはなんでも買え、安全で安心だった日々の生活は、幸せじゃなかったのか?と自問自答すると、よく分からない。すくなくとも、幸せそうな笑顔は忘れていたに違いない。

 この日本人の幸せ感の欠如は、共同体の崩壊にある、と社会学者の宮台真司さんは分析している。核家族が増え、都会的な生活を送ることで、昔、日本の村社会には存在していた、地域コミュニティーという人々とのつながりがなくなってしまったというのだ。近代化することで、人はお互いに助け合わなくても生きていけるようになったという社会環境も、人とのつながりを希薄にした要因。

 人とのつながりが薄いということが、心の物足りなさを生むのだ。

 貧しくても楽しい我が家、町の寄合で仲間と楽しく飲み過ごす、困ったことがあったらお互いに助けあう。以前、日本に幸せ感があったころの日本の風景。現代の日本人は、これを物語に求める。古き日本を描いた映画や本がヒットするのは、幸せ感の欠如がもたらす、猛烈なノスタルジーへの憧れ。

 で、旅をしていると、この古き日の日本にあった風景が、ここアフリカには溢れている、ということに気づく。そういえば、中南米もそうだった、と思い出される。

 ザンジバルでは、皆、幸せそうな笑顔だ。ここには、共同体がまだ存在している。そう、人々が助け合う相互扶助の関係があって、貧しいけれども、豊かなコミュニケーションが残っている。中南米や、アフリカに、魅了されるのは、たぶん、こういうこと。

 ノスタルジー。

 以前の日本もこうだったはず。そして、こういうゴミゴミした時代の日本は、幸せ感に包まれていたはず。

 貧しいからこそ、助け合わなきゃいけない。厳しい旅をしているからこそ、誰かに助けを求めなきゃいけない。そこに幸せの元となるコミュニケーションが生じる。人間は、もともと助け合う生き物なのだ。一人で生きていける<現代的なシステム>の中で、生活することは、人間が人間らしさを失っていくことになるのかもしれない。

 幸せ感を感じたいのであれば、<現代的なシステム>にはあえて乗らない、という覚悟が必要なのかもしれない。幸せとは、<便利>という科学技術がもたらすものや、<物質的に豊か>という経済的発展いう尺度とは別ベクトルのモノなのだ、という認識を持つことが大切なのかも。