(English)
Today I stayed in Newtopia. I wanted to work for children...But I don't know what I have to do for children.
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朝6時、庭に設置された鐘が鳴らされる。起床の合図だ。外はまだ暗い。起きて、顔を洗いに外へ出ると、子供たちが暗い中、水を運んだり、食事のために薪を切って火をおこしたりと、もう、すでにちゃっちゃか働いている。20人ちかくいる子供たち、それぞれデューティと言われる仕事が当番制で割り振られていて、皆、それぞれの仕事をこなしている。
「手伝ってみませんか?」とトブさんに連れて行ってもらったのは、リアやチゴンゴたちが担当になっている、敷地脇の草刈り現場。くの字に曲がった先端が鋭利に削ってある鉄製の草刈り棒をゴルフのスイングのように振り回し、草を刈り取っていくこの作業、アフリカの道を自転車で走っていると、よく道脇で、おじさんたちがやっているのを見ていたんですよ。結構ダラダラした雰囲気でやっていたので、「アフリカ人は真面目にやらないんだなぁ」なんて目で見ていたのですが・・・実際、やらせてもらったら、これが結構キツい。とても、全力投球でずっと続けられるものではない。適当に力を抜きつつやらないと、やっていられない。ん~、なるほど・・・こういうものは、体験してようやく理解ができるようになるものなのだ。
7時にまた鐘が鳴らされ、朝食タイム。子供たちが皆食堂に集まり、配られるのは・・・一杯のカップの1/3くらいまで入れられた、ポリッジという飲み物。これ、とうもろこしの粉をお湯で溶かしたもの。日本人的感覚で説明すれば、おかゆみたいなもの、と言ったら分かりやすいかもしれない。味付けは特になし。そして、朝食は・・・<これだけ>。おかずなんてものはない。炭水化物なこのポリッジのみ。財政的に厳しい孤児院。本来ならば、育ち盛りの子供に、栄養あるものをたっぷり食べさせてあげたいところなのだが、現実はそうはいかないのだ。これだけのポリッジですませなければならないのが現実。ただ、これだけでも、朝食を食べられるだけ、孤児院の子はまだ恵まれているらしい。朝食なんて食べれない子たちが外にはたくさんいるらしいのだ。
道を走っていると、元気に「ムスングー」と手を振ってくれる子供たち。一見元気に生きているように見えるのだが、たまに近づいてきた子供を抱きかかえてみたりすると、その体重の軽さにビックリさせられる。手の細さにビックリさせられる。食べていないのだ。よしんば食べていたとしても、値段が安くてとりあえず満腹感が得られる炭水化物ばかりを摂取しているようで、その食のバランスの悪さが、お腹だけがポッコリ出るという体のバランスの不自然さに出てくる。ウガンダの平均寿命は40歳くらいだ、と聞いた。だが、実際走っていると、結構お年寄りの方々も多く見かける。このギャップはなんなんだろう、と思っていたら、平均寿命を下げているのは幼い子供たちの死亡率の多さだということで合点がいった。5歳以下の子供で満足に栄養が与えられなかったため、感染症などに対する抵抗力がつけられず、死んでしまうケースが多いらしい。以前の日記で、<貧困>のイメージでのみ伝えられるアフリカに違和感がある、といったことを書いたが、実際に<貧困>であるのは事実。そこから目を背けちゃいけないんだとは思わされる。(ただ、彼らは、その貧困の中でも、たくましく生きていこうとしているのだ。それを先進国の人たちが、上から目線でお金だけを送ったりする姿勢はどうかと思う。それは彼らの生きようとする力を返って削ぐことになりかねない。ムスングーを見るたびに、ギブミーマネーと物乞いしてくる何人かのアフリカ人の態度が、援助の負の面を浮かび上がらせていると思うのだ。ボランティア・援助・チャリティーに関しては、また多々思うところがあるので、後でまた書くことにしよう)。
さて、ポリッジを飲み終わり、一旦宿泊部屋に戻る。さすがに、大人なオイラとしては、ポリッジだけでは足りない。実は昨日、お土産用にと買ってきたパンを、カマウさんたちに渡そうと思っていたのだが、「出される食事だけだと足りないだろうから、パンは自分用にとっておいたほうがいい」と他のボランティアのメンバーに言われ、カバンの中に再びしまっておいたのですよ。なんか、悪いなぁと思っていたのですが・・・今朝のポリッジを体験して、アドバイスを素直に聞き入れてよかったと。自分は自分で食べないと、体力が持たなくなる・・・倒れたりしたら、逆に、何しに来たんだって話になっちゃいますからね。しかし、あれだけのポリッジでがんばっている子供たちのことを考えると・・・部屋でパンをかじっている自分に、少々、罪悪感が・・・
とりあえず、ちょっとだけお腹を満たし、部屋から出てみると、建物前に腰掛けてジュニアの足の裏をいじっているナムチビの姿があった。何をしているんだろうと、覗き込むと、どうやら、ジュニアの足の裏に虫が卵を産んでしまったらしく、これを針で取り除いているところとのこと。ジガと呼ばれるこの現象、ほおって置くと、体内で卵が孵り、足の皮膚を食い破って成虫が飛び出てくるというオカルトなことになってしまう。そういえば、弓場でもおなじようなことがあった。大自然と格闘しながら暮らすということは、こういうこととの戦いでもある。「自然溢れる中で、農業を営んで自給自足の生活をしたい」と、理想だけを頭に描き夢見ていたことは、弓場やニュートピアで実際に作業をし、いかに虫に悩まされるか、いかに太陽光が厳しいものか、いかに思い通りに作業が進まないか、ということを身をもって体感すると、甘っちょろい理想は、木っ端微塵に砕かれる。現実は全然甘いものではないということを思い知らされることになる。
と、ジュニアのジガがとり終ったところで、ジュニアの周りで戯れていた子供たちが、一斉に動き始めた。朝の朝礼の時間らしい。カマウさんとシルビアさんが待つ、黒板の前に年齢別にきちんと整列する子供たち。いやぁ、ホント、キビキビ動くようにちゃんと教育されているなぁと、こういう光景を見ると、思ったりするのですが・・・実は、子供たちがビシッと動くのは、カマウさんやシルビアさんの目が光っているところだけ。オイラたちボランティアの前では、結構ダラダラしてたり、仕事をちょっとサボり気味だったりする子供たちなのです。まぁ、その辺は・・・子供ですから。
皆が整列して始まった朝礼。カマウさんやシルビアさんがお話した後、<幸せなら手を叩こう(日本語バージョン)>や<ニュートピアの校歌>の合唱が始まった。子供たちの振り付けつきのこの合唱、めっちゃかわいらしくて。聞いていると心がホッコリしてくるし、なんか元気をもらえる。そして、なにより、歌われている歌が、楽しみながら歌われているなぁって感じさせてくれたところがよかった。というのも、<幸せなら手を叩こう>の歌の歌詞は、日本語そのままで歌われていて・・・おそらく、子供たちは、その歌詞の意味を全部は理解していないんだと思うんだけど、「幸せなら肩叩こう」というフレーズに合わせて、隣の子の肩を叩いたり、「幸せならハグしよう」というフレーズに合わせて、隣の子と抱き合ったり、と、体で表現することで、この歌の持つポジティブさが子供たちから表現されているのだ。歌詞の意味はたとえわからずとも、この歌が持つ意味を感じ取り、体で表現しているニュートピアの子どもたち。そう、歌うってこういうことなんだよなぁ、って、そんな子供たちの姿を見ていると、改めて、なにか考えさせられちゃったりして。このアフリカの子どもたちに対して、歌詞の意味は分かっているのに、歌わされているという態度で歌い、歌本来が持つ、ポジティブさなどを表現しきれない日本の子どもたちのなんて多いこと・・・と自分の幼少の音楽体験を思い返して、日本人の音楽に対する接し方を残念に思ったり。
さて、朝礼の後は、再びお仕事タイム。子供たちはそれぞれ、自分たちの当番となった仕事をこなしていく。草刈り道具の刃を研いだりするところから、子供たち自らがやっている。そんな子供たちに交じって、彼らの仕事を手伝うっていうのも、一つ、ボランティアとしての接し方なんですが、相手は毎日きちんと仕事をこなしている子供たち。まぁ、自分たちの仕事は自分たちでできちゃうワケですよ。オイラが入り込む意味はあまりない。
う~ん、ボランティアをしよう、と思って来たのはいいんだけど・・・具体的に何をすればいいのやら・・・
ボランティアってなんかこう、人助けっていうイメージだけは頭にあった。でも、実際ボランティアとして体を動かす状況に自分が立ってみると、何をすればボランティアなのか、ボランティアってとても不明瞭なものなんだってことに気づかされるのであった。
困っていることを手助けする、必要なものを提供する、それがボランティアの行動原理だと思うのだ・・・が、何に困っているのか、何を必要としているのか、がまだ分からないので、自分から「これをやってあげたい」という発想へ辿り着かない。
そう、本当は、ボランティアって<状況を知る>ってところから始めなければならないのだ。ここには何が足りないのかを、まず知る。水を汲むのが大変だったり、食べ物が充分でなかったり、病気になる子が多かったり、裸足の子供が多かったり、着ている服がボロボロだったり、遊び道具が少なかったり、毎日の生活が単調であったり、消しゴムはみんなで共有して使いまわさなければならなかったり、と、一緒に生活し、ここで暮らすことがどれだけ大変なことなのかを自分自身が体験として実感することで、見えてくる<不足点>。この不足点をなんらかの手段で解決させてあげようと、行動するのがボランティアとして動くことなんだと思う。
この時点で、まだまだ、ここニュートピアに足りないことがなんであるか、見えてはいないオイラには、何をやるべきか、が見えていなかった。ただ、ここでの生活は、見えていないから、見えるまで悩んでいればいいってもんでもない。自分が自発的にどう動くかとは別問題として、ここには、やらねばならぬことや、やったほうがいいことは、たくさん転がっているのだ。
ということで、本日、オイラは、とりあえず、リンさんの作業のお手伝いをすることに。もうすぐ二週間の滞在になる中、子供たちの遊び場が少ないということに気づいたリンさんは、自発的に、ニュートピア敷地の裏手にアスレチックを作ってあげることにしたという。ま、アスレチックを作った一番の理由は、この裏庭の空間を見てたら、自分がここで遊んでみたいって思ったからってリンさんは照れ隠しで言ってたけど・・・でも、この<自分がやってみたいから>という自分の素直な欲求に基づいて、相手の欲することを考えてみることは重要だと思う。よく、相手の気持ちになって考えろって言うけど、実際相手の気持ちなんて頭で考えても分からないものなのだ。自分が相手と一緒の環境で生活して、その中で発生した欲求が、相手が欲しているものに、近いはず。そう、<自分が相手と一緒の環境で生活して・・・>ってことも、重要な要素。相手の環境に足を踏み入れることなく、頭の中で考えた自分の欲求は、相手の欲求と一致なんかしない。日本がよくやる国際援助は、相手の生活環境に踏み込むことなく、一歩上の立場から、勝手に考えた<必要だと思われるもの>を勝手に押し付けている場合が多いと思う。もちろん、そうじゃなく、現地の生活に入り込みがんばって、活動している国際援助もあるのだろうが・・・この辺の<援助という名の枠組み>については、ボランティア最終日、カマウさんから、いろいろアフリカ援助の実情を聞き、考えさせられることになる。
さて、ともかく、お手伝いすることとなった、アスレチック作り。丸太を切ったり、木を埋め込んだり、ロープを張ったりと、結構男手が必要とされる作業が多い。ノコギリ片手に、オイラも肉体労働。
さて、作業に没頭していたら、11時の鐘の音がなった。ここで、またポリッジタイムとなる。昼食の時間は午後1時。朝7時に朝食のポリッジを食べた後、1時まで何も口にしないのは、さすがに子どもたちもシンドイだろう、ということで、11時に一旦休憩でポリッジを飲むことになったんでしょう。食堂では、カップ1/3ほどに注がれたポリッジを、最後の一滴までしっかり飲む子供たちの姿が・・・
この後、食堂でノートを広げ、勉強を始めた子供たち。今の時期は冬休みで、学校の授業はないらしい。そうそう、午前中はずっとお仕事だったりする今の子供たちの生活パターンは、ホリデータイムスケジュールに基づいたもの。普段学校がある時期は、年長の子たちは、近くの学校に通い、年少の子は、ニュートピアに先生を招いてここで授業が行われるらしい。朝から晩まで結構授業が入って、勉強中心の生活になっているとのこと。そんな勉強生活から解放される冬休みなはずなのですが・・・子供たちは、お仕事&自習と相変わらず大忙しな毎日で。日本の子どもたちみたいに、休みだワーイとならない、ニュートピアの子どもたちの生活。
自習勉強が終わったところで昼食タイム。今日は豆の煮込みと、この辺ではポショと呼ばれる、アフリカ定番の主食、とうもろこしの粉を練ったもの。ここニュートピアでは、昼食、夕食の献立は、3つの料理のローテーションらしい。昨日の夜食べたジーナッツというナッツを砕いてペースト状にしたものか、今日の昼飯の豆の煮込みか、もう一つキャベツと煮干によるスープか、の3種類。これに、ポショか食用バナナによるマトケを組み合わせた料理が、繰り返し出されることになる。これだけだと飽きてしまうのでは・・・と思いきや、意外と3種類もあれば、飽きることはない。よくよく考えれば、オイラもアフリカ旅中は、しばらくビーフスープばかり、なんてことがあったりしたし。まぁ、料理は種類じゃないんです、味なんですよ。ここ、ニュートピアで出される飯の味付けは結構いい感じ。なんでも、カマウさんは、子供たちに、食べる喜びを感じられるよう育ってもらいたいって思っているようで、料理の味付けに関しては、料理当番の子にがんばってもらうよう、いろいろ画策しているようなのですよ。
さて、お昼ご飯の後、やっと自由時間となり、仕事や勉強から解放された子供たちと戯れていると・・・雲行きが怪しくなり、スコールのような大雨が降り始めた。オイラたちは、雨に濡れないように、と建物の影に隠れ、雨宿り状態だったんですが・・・雨の中、濡れるのもかまわず動き回る子供たち。ポリバケツを持って、雨水を貯めようとあっちへ奔走、こっちへ奔走。というのも、雨水は貴重な飲み水になるらしいのですよ。やっぱり生活の基本は、水。一応近くに井戸があり、毎日子どもたちは水汲みに行っているんです。が、その井戸の水は、飲めるほどきれいではなく・・・洗濯に使ったり、体を洗うのに使ったりする用の水なんです。飲むのための水は、結構遠くにある井戸まで行かなければいけないらしくて。もちろん、飲み水用の水汲みも担当の子どもが毎日、水汲みに行っているのですが、それはものすごく大変らしくて。雨水が貯められるのであれば、それはとてもラッキーなことらしいのですよ。なので、子どもたちは、雨が降り始めたら、嬉々として水貯めに奔走することになる。こんな姿を見ると、水道一つひねれば水が出てくるところで生活するというのは、なんて恵まれたことなんだろうって、思い知らされる。
ちなみに、子どもたちの一日分の飲み水は、こういった水を沸かして用意された5Lの水のみ。5Lの水を20人強の子どもたちが共同で飲む。あまりに少ない飲み水の量・・・「この子どもたちの人数に対して、飲み水が少なすぎる。熱射病になるからもっと水を飲ませたほうがいい」と、後にここを訪れたドクターが、指摘することになる。
雨が止んだのは4時近く。お仕事の時間に突入しちゃっているので、子どもたちは、水貯め仕事から引き続いて、それぞれの担当のお仕事を開始。
そして、夕刻はシャワータイムでもある。オイラたちボランティアには沸かしたお湯が用意され、水と一緒にお湯を混ぜて、いい湯加減のお湯を使って、水浴びができるのだが・・・子どもたちは、暖かくはない水で水浴び。小さい子どもは、自分で洗ったりできないので、オイラたちボランティアが、石鹸で体をゴシゴシしてあげ、水で流して、すぐに、タオルで拭いてあげることになる。
そして、ようやく夕食。3食目の今日は、ローテーション3つめの煮干とキャベツのスープ&ポショ。これもいいお味・・・と夕食の最中に突然電気が切れた。停電だ。真っ暗になってしまった部屋に、ランタンが運ばれてきて、火の明かりで食事。そんな食事の後は、再びお勉強タイム。電気がある場合には、子どもたちみんな集まって自習をするのだが、停電の日は、明かり節約の意味もあり、小さな子どもたちは、早々と就寝。大きな子どもたちだけが、リビングに集まり、勉強をすることになる。そんな子どもたちの勉強を、見てあげるのも、オイラたちボランティアのお仕事。本日の勉強は数学でして・・・小学校の足し算引き算くらいなら楽勝で教えられる、と思っていたのだが、英語で説明しなくちゃならないし・・・そもそも大変なのが、質問の意味から教えなければならないということ。例えば、「ボブは1981年に生まれました。今は2005年です。さて、ボブは今、何歳でしょう?」といった問いに対して、子どもたちは、西暦という概念から分からないのだ。単に2005から1981を引けばいいということを教えるだけなら簡単なんだけど・・・それだと、応用がきかなくなるだろうから、と、今は2011年で、今度の年明けで2012年になってという話から始めなくてはならなくて。う~ん、果たして分かってもらえたのやら・・・
21時半頃、ようやく部屋に戻る。朝から動きっぱなしで疲れてしまったので、部屋に設置した蚊帳テントにもぐりこんだところで、バタンキュー。ああ、ボランティアって大変。二日目だっていうのもあるんだけど・・・いろいろ考えさせられることが多すぎて、気疲れが・・・ね。
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