(English)
I stayed in Kafountine. I learned Djembe.
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今日も朝からジャンベレッスン。ジプソンに3つ目のリズムを習う。今日はハネた感じのシャッフルリズムだ。一日1リズム。分かりやすいし覚えやすい。と思っていたら、オイラの飲み込みが早いため、今日のレッスンの最後に、4つ目の新しいリズムも教えてくれた。
練習後に復習をした後、井戸に水汲みに行って、行水スタイルでカラダを洗う。午後の練習をした後、電池ライトで夜を迎える・・・という電気も水道もない<カサ・ディ・マンシャ>の生活は今日も続く。
到着した時は、「ゲゲッ、電気も水道もないの?」と思ったのだが、まぁ、無いなら無いで慣れてしまうもので。そして、こういう生活を始めると、今までいかに、無駄に電気や水を使っていたのか、ということを実感させられる。トイレで大を一回流すのに使われている水の量がいかに大量のものであるか。この水を用意するのに、井戸まで一往復半しなければならないという事実に気づかされる(だんだん面倒になってきたので、後半は、一回にバケツ半分しか使わないことにした。それでもキレイに流れるものだったりする)。電気も別に部屋全体をコウコウと照らす必要なんてなかったりする。手元さえ明るければ、まぁ、なんとかやっていけるものだったりするのだ。
まぁ、こんなことも、<無い>からこそ気づくことなんだけどね。あったら、あったで、そのあるものを使うのが当たり前になってきちゃう。その当たり前っていう感覚が、無駄を生む。
昨日の日記にも書いたけど、この<無い>生活によって、一番気づかされたのは<時間の無駄づかい>だった。インターネット、確かに便利なんで、あると使っちゃう。依存するってほどではないのだが、ダラダラと時間を費やしてしまう。いろんな情報が見れるのは楽しさとしてあるのだが・・・これによって<本当にやりたいこと>への時間が削られてしまっていることが問題なのだ。楽だから、そこに転がっている手軽な娯楽に手を伸ばしてしまう。本当にやりたいことが、ちょっとハードルが高くて、辛く厳しい道を歩まねばならないものだったりすると、そちらに入り込むことなく、手軽な娯楽で心を満足させてしまったりする。
本当にそれでいいのか?
ジャンベ修行は手が痛い。アサラト修行は手が動かなくてイライラする。多分、手軽な娯楽が目の前にあったら、修行はそこそこにして、手軽な娯楽に逃避したところだろう。でも、ここではそれが出来ない。だって、逃避する娯楽が何もないのだから。だから、修行を続けるしかない。続けていたら、手の痛さもなくなり、いつの間にか手が動くようになってきたりしている。これが、気分を高揚させる。インターネットをやっている時とは比べ物にならないくらい、楽しい気分で包まれることになる。これはこれまで出来なかったことが、新しく出来るようになったことによる喜び。
便利なものや、手軽な娯楽が当たり前になってきている現代。その環境によって失わされてしまっている大事な感覚があると思うのです。何も無いから何かをしようという感覚。ムビラ修行の時も思ったけど、やっぱりこういう状況からしか新しいものは生まれないのではないかと。何も無い空間や時間がない社会からは何も生み出されないのではないかと。何も無い生活は、そのことに気づかせてくれる。現代社会の閉塞感に違和感を感じるのであれば、こういう場所を訪れるのがいい。ただし、その時には電気も無い場所に行くべし。携帯電話もパソコンも使えないという状況が、何かを気づかせてくれますので。
・・・と書いていたら、小さい頃、親父が何もない山奥の山小屋に連れて行ってくれたことを思い出した。幼かった頃のオイラは、あまりにも何もない場所が退屈すぎて、イライラしてむくれてしまったのを、なんとなく覚えている。う~ん、この何も無い感の大事さ、大人になったから感じることなのかなぁ・・・失ってきてしまったこと、やりたかったのに忙しいと言う理由でやらなかったことへの後悔の念がこんなことを考えさせるのかもしれない・・・
いや、まぁ、単に暇なんです、ハイ。
ちなみに、昼飯を食べに近くをブラブラしていたら、近くのバー&レストランで夜、レゲエパーティなるものが開催されることが判明し、夜、行ってみた。映画は内容がビミョーで、しかも、映画の途中から、隣のホールで、ガンガンにダンス音楽が流され始めちゃって、全然映画に集中できなくなってしまった。ダンス音楽もねぇ、生演奏ならワクワクするのだが、DJ音楽だとこれまたビミョーで。宴は途中だったのだが、24時くらいには退散した寝床へ入ったオイラだったのでした。
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