Why friendly and kindly?
人が人に優しい世界

2013.5.15 / BurkinaFaso(Bobo-Dioulasso) 本日 自転車0km走行 : Total 44947km走行
天気:雨のち晴のち雨 ネット:1
朝飯→サンドイッチ 昼飯→ぶっかけ飯 夕飯→ライス&ヤッサ / 宿→Campement la Pacha(テント泊2000CFA)

(English)
 I stayed in Bobo Dioulasso.



 夜、熟睡モードに入っていた0時半頃、雷の音で目が覚めた。空がさかんにピカピカと光っている。むむ、これは・・・実は、前にも同じようなことがありまして。前回も夜中に空がピカピカ光っていたかと思ったら、その後、土砂降りのスコールがやってきた。こりゃ、今回も、一雨くるな、と、慌てて起きて、テントや荷物やファニーバニーを、いつもバラフォンを練習している屋根がある屋外くつろぎスペースへと退避。最後のファニーバニーをスペースへ入れ込む途中で、土砂降りのスコールがいきなりやってきた。ふ~、ちょっと濡れちゃったけど、なんとか間に合った・・・ということで、その後は、雨の音を子守唄にしながら、くつろぎスペースで就寝。

 さて、朝、空にはまだ一面雲がはっていたが、雨はもう降っていない。灼熱の太陽がでておらず、雨が降っていないなんて・・・今の西アフリカでは絶好のチャリ走り日和じゃないか。出発か?と思ったのだが、今日も延泊予定でして。ええ、今日も引き続き、バラフォンの総復習シリーズなんです、ハイ。

 昨日のうちに、習ったフレーズ全ての手順をもう一度頭に叩き込み直したのだが、まだ、頭で理解しなおしただけでして。体に刻み込ませるまでには至っていない。忘れないように、いや、例え忘れたとしても、すぐに思い出せるようになるには、この段階で体に刻み込ませておかねばならないのだ。今日一日、いや、後二日やれば、ばっちり体に刻み込めるはず。

 ということで、今日もバラフォン復習練習なんですが・・・7時半に起きた後、朝っぱらからいきなりバラフォンを鳴らせるのも、ご近所迷惑なので、朝のうちは、涼しいことだし、パソコン作業でもしようかと。で、久々に朝日記を書いてみたりしたんですが・・・やっぱりこういう作業は朝やんなきゃダメですな。実は、書き残していたマリ到着以降の日記を、ここボボでの修行期間中に書いたんですが、その作業は、レッスンやら個人復習練習を終えた後、日が暮れてからやったんです。が・・・一日、頭を使い切った後ってのは、もう、言葉ってのが頭に浮かんでこないもんなんですわ。いろいろあったことを言葉にして残したい気はあったのだが、言葉が全然でてこなかったから・・・今、読み返してみたら、相当、はしょった日記になっちゃってますな(特に後半)。写真を載っけただけで、その写真に対する出来事説明をすっとばしている日が何日もある。

 日記は午前中に書くべし。

 じゃぁ、頭が冴えている今のうちに、これまでの書き足りていない日記分の追記をしようか、とも思ったのですが、それほどは時間があるわけではない。まぁ、いつかやろう、と思って、今日のところはそのままにしておいたのですが・・・いつか、って後回しにしたものは、やらないもの。人間、やらなきゃって思ったことは、今やらないと、後からなんてできないものなんです、ハイ。

 さてさて、そんなこんなで、書き足りていないマリ日記を読み直してみたりしたオイラ。改めて、マリでは人の優しさに触れてきたんだなぁ、としみじみ。そうそう、チャリで走っていて実感するのは、貧しいと言われている国ほど、その国で接する人々がフレンドリーで、優しかったりするってことだったりしまして。

 なんで皆さん貧しいのに、こんなオイラを迎えることなんて出来るんですか?と、疑問に思っていたりもしたんだが・・・

 最近、ちょっとそれがなんでなのか、オイラなりに思ってきたことがありまして。それは、この過剰なフレンドリーさや、過剰な人に対する優しさは、貧しいのになんで?ではなく、貧しいからこそなんだ、ということ。

 どういうことかというと・・・自然環境が厳しかったり、豊かではない生活状態では、人は人とつながっていなければ、なかなか生きていくのが難しい。そういうところでは、人が人と触れ合うことが、生きていく上での必須事項となっているんです。だから、他人に対して過剰にフレンドリーだったりするんだと思う。それは、彼らがよりよく生きるための手段なんだ、と。

 逆に言うと、社会システムが整い、生活が安定した状態では、人は人と無理につながっていなければならない、ことが必然ではなくなってくる。人ではなく、システムが、生きるのを助けてくれるからだ。だから、社会システムが整った国では、人は過剰にフレンドリーではなくなる(ましてや、見も知らずの旅人にかまってくれる稀有な人などいなくなる。かまうだけの生活的余裕がないわけではないのだが、必然性がないのだ)。もちろん、そんな社会でも、人と接する場面がなくなるワケではないのだが、それは、あくまでもシステムの窓口としての人。そこには人間らしい会話など必要がない、コンビニやファーストフード店でのやりとりはその典型だろう。

 オイラも、日本に居る時には、このシステムの上にどっぷり浸かっていた。コンビニに行く時とかも、店員さんと挨拶なんてほとんどしなかったし、逆に、顔を覚えられて、挨拶とかされちゃうようになると、なんとなく照れくさくて、その店に行きづらくなり、他のコンビニに足を向けるようになったりもしていた。

 そんなオイラだったからこそ、この旅をはじめて、まずは、メヒコ以降のラテン人の過剰なフレンドリーさが、衝撃だったし、戸惑いでもあった。決して裕福とは言えない人たちなのに、見知らぬオイラを家に招いて、泊まらせてくれたり、食事を振舞ったりしてくれる。・・・なぜ?と。

 で、中南米、アフリカと、旅を続けて、実は、世界(いや、まだユーラシアはよく分からないのだが)にはそんな人たちばかりなんだと気付かされた。日本やアメリカのような国の方が、むしろ、稀なんだ、と。

 人と人とのつながりが希薄でもシステム上で安心して暮らしていける安堵感が、日本やアメリカにはあるし、逆に、生活は厳しい(慣れてしまえばどうってことはなくなるのだが)が、人と人との濃いつながりによって、精神的に支えられている、中南米やアフリカのような国々がある。

 まぁ、どちらがいいというのは、一概には言えないのだが・・・

 最初は戸惑っていた、中南米やアフリカの濃い人間関係が、今や、心地よいものになってきたオイラ。これは、味わってしまえば中毒性があり、もはや、薄い人間関係の世界では精神的に満たされなくなってくる。今のオイラは、訪れるお店で顔を覚えてもらうのが嬉しいのだ。時として彼らは、客を客として扱わなかったりするのだが、人間として接してくれる。挨拶されたり、いろいろ聞かれたりしたら、またこの店に来ようって思っちゃう。うむむ、我ながら変わったものだと思う。

 で、この素敵な人間関係の世界がいつまでも続いて欲しい、と、勝手ながら思う。

 けれども、この世界も、いつか、システム化が進むことで、人間関係が希薄なものになってしまう日が来てしまうのだろうか?

 む・・・そういえば、貧しいわけではないし、システム化もしているのに、過剰にフレンドリーで過剰に親切な国がヨーロッパにあった。スペイン、フランス、イタリアといった西欧ラテン国の人々だ。彼らのようなバランス感覚で生きていけば、システムの上で生きるようになっても、人が人としてつながって生き続けていけるのかもしれない。

 あ、いや・・・そういえば、今ヨーロッパでの金融危機がさかんに取り立たされているのは、この辺の国なんだよな(フランスはちと違うけど)・・・うむむ、やっぱりバランスよく生きるって難しいものなのねん。

 









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