Hill of Crosses
ココは走ろうと思っていたのだが・・・

2013.9.27 / Latvia→Lithuania(Riga~Siaulai) 本日 自転車44km走行 : Total 48599km走行
天気:雨のち曇時々雨 自転車折りたたみ:1 ネット:1
朝飯→パン 昼飯→なし 夕飯→パスタ / 宿→Simona GuestHouse(シングル50リタス)

(English)
 I entered to Lithuania.



 このままバルト三国をバスだけで通過していっちゃうのもなんだなぁ、と思っていたオイラ。ちょうど、ラトビアのリガからリトアニアのシャウレイという町までが、チャリで走るにはちょうどよさげな距離で。しかも、シャウレイに向かう途中に<十字架の丘>というなにやら面白そうな名所があるみたい・・・ということで、リガからは、チャリで走るつもりでいたんですよ。

 が、今日の天気は雨。

 雨の中走るほど、チャリ走りのモチベーションが高いワケでもないし、延泊して明日走るには時間的余裕がない。

 ということで、本日も、バスワープ。

 リガにはまだ数泊するというアキコちゃんとはお別れして、宿を出て、ここんところ恒例となった、朝のバスターミナルまでのチャリ走り。ターミナルに到着して荷物を外し、輪行モードにまとめて、バスが来るのを待つ。

 今日も、素敵な出会いがあるかなぁと、ちょっと期待してみたのだが、今日のバスでは特になにもなく、あっという間にラトビアを出てリトアニアに出国。そして、シャウレイに到着。

 と、この時にはなかったケド・・・素敵な出会いは晩にありまして。その話は後ほど。

 さて、バスで素通りしてしまった<十字架の丘>が気になっていたオイラ。リトアニアに入国したら、雨は止んだので、途中で降ろしてもらって<十字架の丘>に自転車で走って行こうか、と思ったのだが・・・運転手さんには英語が通じず、オイラの意図が伝わらなくて、結局シャウレイまで乗ってきちゃったんですよ。エストニアは結構英語が通じていたのに、ラトビア→リトアニアと下ってくるにつれ、英語が通じにくくなってきた。

 とりあえず、シャウレイで宿をとって、荷物を置いた後<十字架の丘>に戻ることにした。まずは、シャウレイで宿探し。いくつかユースホステルがあるようなので、周ってみたのだが・・・どこも満室で空きがないとのこと。うむむ、困った。そういえば、オンシーズンのヨーロッパは、ネットとかで事前予約しておかないと、泊まれないことになるよ、とは聞いていたのだが・・・幸いなことに、これまでなんとかなってきたんですよ。ま、北欧でテント生活ばかりしていて、そんなに宿にお世話にならなかったからなのだが。

 ホステルには泊まれないとのことなので、ちょっと高そうなゲストハウスをトライしてみることに。ひょっとしたら安いかも・・・と思って尋ねたのだが、やっぱり高かった。「この辺に安く泊まれるところはないですかね?」と、一応聞いてみたら・・・このゲストハウスの受付のオネエサンがすごくいい人で。わざわざインターネットで調べてくれて、「Simona GuestHouseっていうゲストハウスが安いわよ。行ってみて泊まれなかったら困るから、電話しておいてあげるわ」なんて言ってくれ、わざわざアポまで入れてくれまして。あ~、泊まらない客なのに、ここまでしてくれるなんて・・・ありがとうございます、オネエサン。

 で、向かったSimona GuestHouse。ここは一軒屋の一室を客に開放している民宿タイプの宿だった。屋根裏部屋に案内されたんだけど、シングル部屋でオイラとしては十分な部屋。で、チェックインした後、荷物を置き、さっそく、身軽になったファニーバニーに乗って、<十字架の丘>へ。

 十字架の丘は、シャウレイから12kmほど、バスで走ってきた道を戻り、そこにあるわき道をちょっと入ったところにあるらしい。大通りは一本道だし、わき道も、分かりやすい場所にあったので、十字架の丘へは迷わず到着することができた。

 なるほど、ココは名前の通りの場所だ・・・

 目の前には、何万本にもなる十字架が立ち並んだ小高い丘が見える。

 1800年代、リトアニアは、当時リトアニアを支配していたロシアに対して武装反乱を起こした。その時、砦を擁していたシャウレイの丘が激戦区となり、数万人もの人命が奪われてしまった。そして、生き残った者たちが、死んでしまった者たちへの想いを込めて、いつしか、ここに十字架が掲げられるようになったという。その後、十字架の想いが通じたのか、ロシア革命後の1918年に一旦ロシアから独立。が、それもつかの間、ソ連に脅迫されて1940年に再び併合されてしまうことになる。ソ連の統治下では、三度にわたってソ連がブルドーザーでここの十字架群を撤去したのだが、撤去しても撤去しても、増え続けた十字架。いつしか、この場所は、ソ連の暴挙に対しての非暴力的な抵抗の象徴として捉えられるようになった。そして、独立後も、世界中の戦争と自由へのリマインダーとして、特別な意味を帯びて、ここに存在している、とのこと。

 抵抗の意味合いがあったのか・・・

 なるほど、確かに、ある種の威圧感をここからは感じる。この威圧感は、当時は、圧政するソ連に向けて、そして今は、絶えることない理不尽な戦争に対して向けられているのか。

 十字架の量に圧倒され、宿に戻ってきたところ、ちょうど同じ宿に泊まっていた、日本人と韓国人のカップル、ヒトミさんとドゥくん夫婦と遭遇。同じく、今日十字架の丘に行ってきたという二人。

 そんな二人と、十字架の丘について話していて・・・いつしか話は<人間の鎖>の話になった。人間の鎖とは・・・独ソ不可侵条約50周年を迎えた1989年8月23日に、当時ソ連の統治下にあったバルト三国で、独立運動の一環として行われたデモ活動。およそ200万人が参加して手をつないで並ぶことで形成された人間の鎖は、600km以上となり、リトアニアの首都ヴィリニュス-ラトビアの首都リガ-エストニアの首都タリン、と3ヶ国を人間だけで結んでしまった。その光景は、圧倒的な迫力をもつ非暴力デモとなったという。

 武力を背景に強圧的な支配を行うソ連に対する、あくまでも、非暴力で抵抗するバルト三国の人々。十字架の丘同様、バルト三国の独立、そしてソ連の崩壊を語る上で、象徴とされる出来事だ。

 バルト三国に関して、あまり調べもせずに突入してきたオイラは、こういった歴史的背景はまったく知らなかった。これらの事実は、ヒトミさんとドゥくんが教えてくれたこと。二人は、この<人間の鎖>の話にえらく感激し、それを自分の体で感じるために、バルト三国に来たとのこと。

 ヨーロッパは、歴史を知った上で訪れるのと、歴史を知らずに訪れるのでは、感じ方がまったく違ってくる。二人と話していて、ハッとさせられてしまったよ。歴史を勉強せずに訪れるから「街歩きは飽きちゃった」なんて言っちゃうんですよ、オイラは・・・




































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