(English)
I stayed in Varanasi.
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「<ナ>の音の時の手のカタチはこうだ」と、師匠に何度も何度も言われ続けている。今日も同じ指摘をくらった。言われる度に、直し、「そう、そのカタチだ」と言われるのだが、たぶん、ピンと来ていないか、間違って分かったつもりになっているのか、またやっているうちに、違うカタチになってしまう。結局自分のやりやすいカタチに持って行ってしまうのだ。そして、そうなったら「違う」と師匠に言われ、また直される。
そこいらへんにいるお金目当ての平凡な人を先生としてしまったら、とりあえず基本の叩き方を教えた後は、叩き方についてそんなに口酸っぱく指摘してはこないだろう。
が、うちの師匠はとにかく、根気よく間違っていることを間違っていると言い続けてくれる。ちなみに、これがいい師匠であることの条件。
実は他人にモノを教えるということは、ケシャヴ師匠のような教え方しかないのかもしれない。正しくことが出来るまでは、ひたすら「正しくない」ということを教え続ける。結局、本人がちゃんと分かるまで、正しくはならないのだが、本人が自覚して、正しくできるようになるまで、根気よく「正しくない」ことを指摘し続ける。
まぁ、本人がちゃんと分かるっていうのには、とにかく時間がかかるもんなんすけどね。「分かった」って言ってても、それは単に分かったつもりという状態が多いからだ。そんな他人に対して、根気よく「正しくない」と言い続けるのは、大変。だからこそ、それが出来る人がいい師匠なのだ。
今回、太鼓修行をしていて、ホント、この<分かったつもり>状態を実感している。自分ではできているつもりなのに、「違う」と指摘され、直され続ける。分かった、出来た、と思っていても、それは実は勘違いで、難しい楽器であるタブラーが、そんな簡単ちゃんとできなんてしやしないのだ。
そして、今日の指摘で、ようやく、「ちゃんと分かることができた」。今までいかに、分かったつもりでいたことか。って実感するのだが、実は、毎回ちゃんとわかることができた、とは思ってはいるのだ。とい、今回もただの分かったつもりなのかもしれないが・・・
まぁ、修行ってそういうことの繰り返し。
それにしても、オイラはこれまでいかに「分かったつもり」で満足してきたことか。本当に<分かる>ことって、こんなにも面白いことなのに。ああ、もったいない。
とにかく、今までは<分かったつもり>になった時点で、修行を終えていたんすよ。いや、本人的には「ちゃんと分かった」と思っているから、終えていたんだけれども。でも、これまでの終えていた時点のその気持ちは、ただの分かったつもりであった、ってことに、今回気づかされている。
一つのことを延々やる、という経験を経ないと、そのことに気づけない。
成功するためには、10000時間かけねばならないという<10000時間の法則>、そして、師匠から聞いた<本来ならば、一つのコンポジションに1年かける>っていうのは、そういう、一つのことを延々やることによって、「ちゃんと分かる」ことに気づくために必要な時間なんだろう。
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