(English)
I stayed in Hyderabad.
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ハリームが食べれたので、もうハイデラバードを出発してもいいのだが、なんとなく延泊。というのも、ハイデラバードを出ちゃうともう南インドではなくなってしまうからだ。南インドの料理をもっと堪能すべく、もうちょっとハイデラバードにいようかと思いまして。
しかし、アーンドラ料理とかハイデラバード料理っていうのは、南インド料理と区分されてはいるが、実は、北インドの影響を大きく受けている。マイソールでアーンドラ料理を食べた時に知ったのだが、実際、ハイデラバードに来て食べてみたハイデラバディ・チキンカレーも、コッテリ系の北インド流カレーだった。
ただ、これはそれなりのレストランに行って「ハイデラバードっぽいチキンカレーを」とわざわざ頼んだからこういう料理が出てきたのだ。普通の町の食堂で、チキンカレーを頼むと、あっさり味でスープ状のチキンカレーが出てくる。アーンドラ州で、ハイデラバードで、普通の庶民が食べるチキンカレーは<ハイデラバディ・チキンカレー>ではない、というのがちょっと面白い。
<ハイデラバディ>と名がつくから、まるで、ハイデラバードではみんなこのカレーを食っているのかと思うのだが、実際はそうではないのだ。名古屋で味噌カツが有名だからといって、誰しもがいつもトンカツを味噌で食べているワケではない、というのと一緒か。名物として特徴的なものがあるんですよ、というくらいなものなのだ。
こういうのは、実際に訪れてこそ分かる。ネットや本で調べるだけだと「そうかぁ、ハイデラバードにはハイデラバディ・チキンカレーというのがあるのか。ハイデラバードではみんなこのカレーを食っているんだな」と決めつけちゃいがち。本当はもっと多様なのにね。なんで、決めつけちゃうかというと、決めつけると楽だから。ハイデラバードにもいろんなカレーがあってね・・・というより、ハイデラバードにはハイデラバディ・チキンカレーっていうのがあるんだよ、と覚える方が楽。旅行者としても、こういう特徴的な料理があったほうが、目的意識が高まるというか、ハイデラバードにはハイデラバディ・チキンカレーってのがあるのか、だったら、行って食べてみたいなって思わされる。
ということで、表面的に知るだけなら、その地で<名物>とされているものを食べるだけでいい。それで十分気持ち的には満足できる。が、食文化を研究、探求する身としては、それだけでは十分ではないって思っちゃうのだ。その地で<名物>と呼ばれているものが実際に食べられるのはホンの数回。ほかの時に、どんなものが食べられているのかってことを調べるのが、一歩踏み込んだ探求だと思う。
そこまで踏み込んだら何が見えてくるのか・・・いや、実は踏み込もうと思っているオイラにも、今はワカラナイ。ただ、踏み込んだ方がいいって思う気持ちに押されて踏み込んでいるだけ。好きだから探求しているだけなのだ。始めから<意味>を求めて探求しているワケじゃない。
しかし、こういう<好きだから>という理由で踏み込むのがいいんじゃないか?踏み込み続けることで、いずれ<意味>が見えてくる。そして、その時見えてくる<意味>は、最初から設定する意味とは違うものに辿り着ける可能性がある。最初から設定する意味なんて、限定されたもの。もっと自由に動くことで見つけた意味の方が、それこそ意味がある気がする。
最初に意味を設定するのは、物事を効率的にやるにはいい。しかし、それは答えが分かっている時のことだ。答えが分からない時には、ひたすらランダムウィークで手あたり次第やっていくのがいいのだ。
自由に旅をするってそういうこと。あらかじめコースが決まった旅といのは、答えを決めてその答えに向かって効率的に動くことを言う。それに対して、答えがどこにあるか分からない時は、自由に旅をして<自分が好き>と思うことを徹底的にやってみるといい。そのうち、答えがみつかるかもしれない。いや、ひょっとしたら見つからないかもしれないのだが(笑)でも、そこが大きな違いなんだと思う。
見つからないかもしれない答え・・・ただ、答えを見つけやすくする秘訣はある。それは「好きだと思ったことがあったら、現地の達人に弟子入りして、徹底的に習え」ということ。ここでポイントは、それまでの自分のやり方を捨て、完全に達人のやり方で上書きするということ。こうすることで、自分が捨てられる。今まで答えが見つからなかったのは<見つけられない自分>が居たから。その自分から変わるには<見つけられない自分>を捨て去る必要がある。そのために一番効果的なやり方は<自分の好きなことをやれるようにする>ということだ。好きなコトであれば、踏み込みたくなる。
逆に言うと、見えていないから放浪するのだ。見えてしまえば放浪する必要がなくなる。タイのお坊さんに言われた「旅しなくても人生楽しめますよ」というのは、見えている人だからこそ言える言葉だよなぁ、と最近思う。
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