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やっとわかった力を抜いた叩き方/タブラ修行81日目

2015.11.3 / India(Varanasi) 本日 自転車0km走行 : Total 57751km走行
天気:晴 ネット:1
朝飯→サンドイッチ 昼飯→チキンカレー 夕飯→スパニッシュオムレツ / 宿→Joti Cafe(ダブル300ルピー)

(English)
I stayed in Varanasi.


 今日も11時からレッスン。昨日教わった二つ目のパターン、ゆっくりのビランビットリズムの中で超高速で叩くフレーズ、ダーティンナパターンから始まった。これ、相当リズムチェンジしてしまうパターンなので、速さの切り替えが分からなくなる。宿で練習する時にはLaharaを流し、合わせながらやっているのだが、レッスンに来て何もないで叩くと、間違ったリズムで叩いてしまう。というか、フレーズが高速過ぎて叩けないからズレてしまうのだ。

 「リズムが勝手に変わってしまったり、一部でのずれてしまうと、一緒に演奏しているシタールプレイヤーは困ってしまうぞ」

 と師匠。ええ、分かってます。でも、叩けないんです。ということで、このフレーズを、ちゃんと叩けるようになるための練習用フレーズを教えてもらうことに。というか、その練習用フレーズはすでに前回の第一回タブラー修行の時に習っていた<ダーティラキタタカティラキタ>パターンだった。これを、やれとのこと。む、このフレーズは前回死ぬほど叩かされたんで、もう身についているはずなんですが・・・と思ったのだが、とにかく、師匠が叩けというので、叩いたところ、「それじゃダメだ」と。

 ええ!?前回これで良しとしてくれてたじゃないですか?

 どうやら、ダメらしい。前回はオイラの技術が稚拙ということで、この段階ではそれ以上望めないからそれで良しとしたのだが、本当はダメだったのだ。

 いや、そのダメポイントは、前回からずっと指摘し続けられていた。<体の力を抜いて叩け>ということだ。何度も師匠に言われて、その度に、オイラ的には肩を回し、力を抜いて叩き直していたのだが・・・結局力を抜いて叩けてなかったのだ。

 今回、それを徹底的に直されることに。というか、ようやく、師匠がいう<こうやって力を抜くんだ>というやり方が、分かったというか。要は、手全体に力がかかりすぎていたワケではなく、手首を使わない叩き方をしちゃっていたので、結果的に手の動きが固くなっていたのだ。手首を使うことを意識したら、一気に力を抜けた叩き方ができるようになった。まぁ、手首を使う叩き方にまだ慣れていないので、ぎこちないのだが。

 そう、これまでは、分かっていなかったのだ。オイラ的に力を抜いて叩き直していたのも、全然力を抜いて叩けてなかった。師匠はダメなところは何度も指摘してくれ、こうやるんだということを教えてくれるのだが、教わる本人が<分からない>と、教えてもらったようにはできない。当たり前のことなのだが・・・教わる本人が<分かる>のは結構時間がかかるもんなんですよ。これが、修行には時間がかかってしまう要因。

 教わる本人が<分かる>には、それ以前の基礎が出来ている必要がある。高度なテクニックをいきなり教わっても、できるようにならないのは、それ以前の基礎が出来ていないために、<分からない>からなのだ。

 長い時間をかけ、基礎を積み重ねることによって、ようやく<分かる>ようになる。今回の力を抜いた叩き方も、結局師匠にはずっと同じことを言われ続けていたのだが、その師匠の言うやり方を、ようやく、今日<分かる>ことが出来たのだ。

 分かってやれるようになると、以前でもやろうと思えばやれていたことなので、「なんで今までやれなかったんだろ?」と思ったりすることだったりするのだが、やれる前は、この<分からない>感覚が分からない。<分からない>からできない。

 独学でやっていると、この<分からない>感覚が分からない状態から抜け出せないループに陥ってしまうことが多々ある。そこから抜け出させてくれるのが、<いい師匠>なんだと思う。結局できるようになるには、やっている本人が<わかる>必要があるのだが、わかるようになるには、時間がかかる場合がある。そんな時でも、根気よく、正しい型を言い続け、適度なタイミングで、分かることへ導きの方法を示してくれるのがいい師匠なのだ。いい師匠が言うことでも、論理的ではなく、一見無駄な時間をかけているように感じることがあるかもしれない。でも、<分からない>人が何を分かっていないのか、ということを知っている師匠のいうことをやり続けることが、上のステップへ進むのに絶対必要なことなのだ。

 二回目のタブラー修行に突入しても、毎日新しい発見の連続だ。というか、二回目だからこそ、気づけることに毎日遭遇している気がする。基礎ができるようになったからこそ、次への余裕ができて以前見えなかったものが見えるようになってきたというか。

 3~4か月間をあけたのも正解だった。その間に一回目のタブラー修行に習ったことを自分なりに今回はちゃんと復習したってのも正解だった。さらに、ケシャヴ師匠が<いい師匠>なので、教えられたことの積み重ねが、ちゃんと<出口>へ向かっているってのも、いい感じ。

 確実に、上達している自分を感じれるようになってきた。先週は久々の修行突入だったので、やれるはずのこととやれることのギャップに戸惑いがあったのだが、二週目に入り、今できることを再認識し、できないことへ真摯に取り組む態度に心を切り替えたら、それができるようになることを楽しめるようになってきた。

 ということで、今日のレッスンは、第一回タブラー修行で習った基礎フレーズを練習用にひたすら叩くことになったのだが・・・それだけでは不満だろうということで、一応、新しいフレーズもならった。いや、復習フレーズだけでアップアップなんですけど・・・とりあえず、習った新しいパターンは、ダティダパターンと、昨日習った高速パターンの応用フレーズの二つ。

 まぁ、とにかく、新しいフレーズは於いておいて、高速パターンをやらねば。しかし、高速パターンは、応用フレーズをせっかく習っても、基礎フレーズが叩けないと叩けるようにならないんだよねぇ・・・と思いながら、ひたすら基礎フレーズを叩いていたら、夕刻頃には、なんとなく、高速フレーズも叩けるようになってきた。叩き続けると、手がそういう型になってくるのだ。これが、ひたすら叩き続ける練習をする意義。

 ところで、今日、新しいタブラが届いていた。実は前回、最初に練習用に買ったのとは別に、演奏用にもう1セットタブラーを買っていまして。ただ、前回はバヤンだけ作ってもらって、師匠のところに置かせてもらっていたんですが、猫が落として壊れてしまったとのこと。それの修理(っていうか作り変え)ともう一つのタブラーが、今日、届いたんですよ。師匠が見立てて作ってもらっただけあって、めっちゃ素晴らしいタブラーセットでして。まず、なんといっても重い。やっぱりタブラーは重い方がいい。叩く時に安定するんですわ。安定しないと落ち着いて叩けない。持ち運ぶのには不便だけど、やはり重いのはしょうがないのだ。

 で、この新しいタブラーを早速使って練習を始めたのだが、叩いているとタブラーの表面が汚れてしまう。それを見て、師匠が「お前の手は脂が多いな」と。確かにオイラは脂っぽいんですわ。それは自覚してまして。で、それは体質だからしょうがないじゃないですか、と思ったら師匠が「脂分の食べ物を控えて、脂がなるべく出ないような体にしろ」とのこと。確かに、師匠のところの飯はベジ料理がおもで、料理に脂が少ない。そうか、タブラー奏者はそういうところかも気をつけねばならないのか。

 さて、夕刻、練習をひと段落させ、夕飯を食べに下へ。そこに、リシケシで出会っていた旅人と再会。意気投合した彼と話していて・・・ごみのポイ捨て問題の話になり、ちょっと考えさせられることに。インドとかごみをポイ捨てする習慣があり、みんながやっているのを見ていると、つい、やってもいいのかな、と思って自分も罪悪感を感じつつ、たまにポイ捨てしてしまうことがあるのだが・・・彼は、「それはダメだと思います」と言い切りまして。そうなのだ、流されていいか、と思ってしまっても、そこに罪悪感があるのなら、やってはダメなのだ。郷に入っては郷に従えという諺もあるように、その土地のやり方に馴染んでしまったほうが、心は楽になる。が、自分がそこに違和感を感じるのなら、やっぱり楽な方にいってはいけない、という話。

 やっぱりポイ捨てはいかんなぁ、と思いながらも、一方で、その話に違和感を感じていた。旅に出ても相変わらず「日本がいいです」という人がいる。彼もそういう人だった。がんじがらめのルールがあるのに、もはやそれを受け入れてしまい、俺たちは自由にやっていると勘違いできる日本社会。それが勘違いだということは世界を旅するとよく分かる。相変わらず日本がいい、という人は、快適さと引き換えにしている自由の大事さに気づけていないのだろう。ゴミをポイ捨てすると、罪悪感を感じつつ、なにか解放されたものも感じてしまう。この解放感が、<空気>という名のもとに、がんじがらめにされてしまっている日本的な心を自由にしてくれるものなのかも。

 さらに、夜寝る前、ポットキャストで最近ハマっている<世界遺産と雑学の旅>を聞いていたら、世界旅を続けているのだが、長い夏休みを過ごしているだけでなにもつかめてない自分が居て、どうしたらいいでしょう、という相談メールの話をしていた。オイラの場合、タブラー修行とカレー修行と餃子修行があるから、そういう悩みとは無縁。特にタブラー修行で、人生の正しい頑張り方を掴んだので、旅の意義を十分すぎるほど、実感しているから、ホント、そういう旅の無常観とはかけ離れた旅になっているのだ。何かを体得する旅をすれば、そんな悩みを抱えることはないのに。けど、そういう没頭するものを見つけることができないのが、まず前提として問題なんだろうな。さらに、オイラみたいに<いい師匠>に巡り会えるかどうか、ってのも大きな問題ではある。ケシャヴ師匠に巡り会えなかったら、太鼓も中途半端なまま帰国することになり、オイラも旅の無常観に陥る可能性があったかも、とも思ったりするのだ。














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