(English)
I stayed in Varanasi.
|
|
今日は師匠の都合で10時からレッスン。実は11月に入ってもう一人生徒が増えまして。オイラの前の時間にレッスンを受けているんですよ。日本人のヤスさん。オイラが前回受けていた内容のレッスンと同じことを教えている師匠と習っているヤスさんを見て、思わず懐かしさがこみ上げてくる。
で、今日のオイラのレッスンは、ディナゲナダラゲナという前回やったパターン。ダテテパターンで、できたつもりなのに出来ていないオイラの状況を見て、この技は強化させなければいけない、と師匠が思ったんでしょうな。ダテテパターンと同じように、手首の回転を使う技のディナゲナパターンを復習することに。
そう、実は手首の回転パターンは、前回やっていたんですよ。今回ダテテパターンを教わった時に、まるで初めて教わった新しい技だと思ったんだけど、実はそうじゃなかったのだ。というのも、前回教わった時には、高速フレーズの叩き方として紹介してくれ、師匠が模範演技を見せてくれただけで、その時、あえて、オイラにやるようには指示しなかったんです。まだ無理と思ったんだと思うけど。そして、最終日に、個人練習としてやっておくべしというパターンにこの手首回転パターンが入っていたんですが・・・なんのためにやるのか、イマイチ分からなかったので、個人練習でやれなかったんですわ。
話がそれるが、前回のレッスンが終わり、一旦タイに飛んだあともタブラーを持ち歩いてはいたんですが・・・正直、個人練習が十分できたとは言い難い状況だったんですよ。たまに叩いてはいたんですが、それはフレーズを思い出す程度。とても、手を早く動かすようになるための強化練習とか、そういう段階に踏み込んだ練習は出来なかったんです。それは、旅で忙しかったとか、カレー修行のほうに気持ちが行ってしまっていたからとか、タブラーの皮が破れたからとか、いろんな理由が考えられるんだけど、どれもサブ的な理由でしかない。やれなかった本当の理由は<やれる体と脳>になれていなかったからだ。
何が足りなかったかというと、暗記と知識と<正しい型>。実は前回だけで、十分ベーシックは習い終えていた。師匠から教わったフレーズを全て暗記し、タブラーやインド音楽について勉強してオーバービュー的な知識を頭に叩き込み、正しい型の叩き方を分かっていたら(前回はそれはそれで、正しい型だと思っていたのだが)、自然と自己練習はできるはずなのだ。それなのにできなかったのは、これらが出来ていなかったから。
暗記は途中で重要性に気づいたから、それなりにやっていた。まぁ、これだけでもやれていたから、東南アジア旅行中も、少しは個人練習ができたってのがある。が、知識がなかった。だから、今になって、ようやく、師匠がやっている意味が分かるという状況になったのだ。
ヨガの時もそうなのだが、ただ、やり方や型を教わっても、それが、どういう意味を持つのかという一段深い部分での理解がないと、踏み込めないのだ。ヨガの場合は、解剖学が助けになった。カレーの場合はスパイスが助けになった。しかし、タブラーの場合は、それがなんなのか、分からなかった。
今になって、買ったタブラーCDを整理する過程で、インドの有名タブラー奏者について調べて知ったり、インドには六大流派があって、それぞれタブラーの演奏スタイルが違うということを知ったり、インド古典音楽にはラーガとターラというものがあり、演奏する際にはある決まり事があることを知ったり、決まりごとがありながらも、その枠内では毎回自由に演奏するインプロビゼーション的な演奏であるということも知ったり、その中で、タブラーも演奏の組み立て方がある、ということを知り、前回習っていたフレーズが、それぞれ、カイダとかガットとかあり、それを師匠がノートに書いてくれていたことを今更確認し、さらに今回、ビランビットリズムとか習ったりすることで、ようやく、習っているそれぞれのことが、繋がり、一段深い部分での理解ができたってワケなのだ。
こういう一段深い部分での理解と知識を持っていないと、せっかく師匠が言ってくれた大事なことをスルーしてしまうのだ。教えてもらっていたはずなのに、覚えていない、という今回のようなことが起こる。そして、さらに、繋がっていないから、個々のフレーズがバラバラで、練習していても面白くない。だから、練習に身が入らないってことにもなる。
夜宿に戻って、前回のレッスンの様子をビデオで見返してみたのだが、ホントにちゃんと教わっていた。ただ、あの時は、まったく分からなかった気がする。とりあえず、師匠のやることを真似てはみたものの、身につけるまで追い込んでいない。それは、結局分からなかったからだ。
まぁ、なんだかんだ言って、やれなかった最大の要因は、やはり<正しい型>が身についていなかったからだと思う。いや、前回終わった時点で、あの時には、自分としては<正しい型>を身につけたと思ってはいたんですよ。が、今になって振り返ると、身につけてなんてはいなかった。だからこそ、個人練習がはかどらなかった・・・というのは、今になって振り返るとわかる。
実はジャンベを買って、ジャンベ練習もこっそりやっているのだが、ジャンベが身につかなかったのも、同じ要因。結局正しい型が身につくまで、続けなかったのが、敗因。まぁ、ジャンベ修行の時は、指摘し続けてくれる師匠が居なかったから、続けていてもできるようになったかは、疑問なのだが。
今回、前に書いた<ナ>の叩き方の発見だけでなく、これまた前に書いた<テテ>の叩く時の力の抜き方、そして、今回苦戦している手首の回転を使った叩き方、これらがちゃんと叩けるのが<正しい型>をマスターできたということ。それが、今もって出来ていないんだから、前回の終了時では、まだまだだったってことなのだ。
おそらく、今回の手首の回転ができるようになったら、<正しい型>の基礎編がようやくできるようになるってことになるのだろう。そうなってようやく、個人練習ができるようになる段階に入れるのだ。今ならおもう。今、この状態からなら、個人練習をやるのが楽しい。一日中、ぶっ続けで叩けと言われても、やれる。
前回、実はこれらすべてを習っていたことから分かるように、レッスン的には、前回で基礎編は終わっていた。が、オイラ自身がそれに追いつくのに時間がかかったってのがあり、本当の意味で基礎編を終えれるのは、もうちょっと先なのだ。
物事を習う時、ココまでは師匠について習ったほうがいい。その先は自分だけでできる気がするが、ココまでは自分だけでやっていると、悩むだけだし、いつまでたっても上達できない。これまでのオイラが、その状態だったから、その辛さとかけてしまった時間の無駄っぷりは、痛いほどよく分かるし、師匠について、ココまで徹底的にやりこむことの大切さは、身に染みて分かる。
そんなことを実感している、今日この頃のレッスン。非常に有意義です。毎日自分が前進しているのが分かります。
ということで、今日の新しいフレーズは、ディンナゲナパターンの応用フレーズだったのですが・・・これがめっちゃ難しくて。まず、叩く前に、歌えないのだ。自分の中にそのフレーズの枠組みがあれば、叩けなくても歌えるものなのだが、これは歌えない。ということは、自分の中にこのフレーズの枠組みがないってことなのだ。
師匠について教わる意味はココにもある。自分でやっているうちは、自分の中にある枠組みでしかできない。その枠組みを超えたものを注入してくれるのが、師匠という存在なのだ。
そして、新しい枠組みを自分の中に注入するということは、自分が変わるということでもある。タブラー修行を始めて、オイラはどんどん自分が変わっているのも感じている。それは、今までオイラの中になかった枠組みを、自分の中に取り込むということがどういうことなのか、が分かったからなんだと思う。
タブラー修行をして一番よかったのはこの点かも。
タブラーに限らず、ヨガやカレーについてもこれまで以上に学習で来た感があるのは、タブラー修行でこれに気づけたからだと思う。
よい人生を生きたければ、よい人生を送っている人の真似をしろという。よい人生を送っている人は、よい人生を送るためのよい戦略を持っているから、その戦略を真似しろってことだ。その通りだと思う。が、その戦略を真似するってことが、自分の殻に閉じこもっていると難しいのだ。
自分の殻から解放されると、世界の見え方が変わる。今日も夜、コンサートがあったので、行ってみたのだが・・・いつもと同じ二人の演奏が、今日は違ったものに見えた。
|
|

|