(English)
I stayed in Varanasi.
|
|
ここんところやっているのは、肉体のコントロールばかり。結局、そもそもはそこなのだ。楽器をやるにしても、運動をやるにしても、結局自分の精神や肉体をコントロールしていく術に行きつく。精神のコントロールっていうのは曖昧すぎるので、人が出来ることは、肉体をコントロールすること。それがまずは大事、というヨガで習ったことをタブラで実践している。ケシャヴ師匠も同じようなことを言っているし。要はスピリチュアル的なものってのは、自己の肉体的なコントロールの先に感じるものってワケだ。音楽やスポーツによって辿り着く恍惚感。これは、なんか科学的に解明されているものなのだろうか?
さてさて、ようやくそういうことが出来るようになったのは、逃げない術を身につけたからなのかもしれない。というか、自分が逃げているってことを自覚できたからなのだ。暗記や、ストレッチ、これまでメンドクサクて逃げていたものだった。大事ですから、と本に書かれていてもすっ飛ばす人だった。
が、今や、こういうのをちゃんとやれるようになったってのがデカい。そして、そういうことが出来るようになったのは、ケシャヴ師匠に導かれたから。自分ひとりだけでは、いつまでたっても逃げる人間のままだっただろう。というか、自分が逃げる人間だって気づけなかった。結局自分探しとかモンモンとしている人は、ココが問題なんだと思う。逃げることをやめればそのモンモンはおさまるのだ。それを気付かせてくれる旅になればいいが、ただ楽しくないことから逃げるだけの旅になってしまうと、旅が微妙になる気がする。何によって気づくかは、人それぞれ。旅しなくても気づく人もいるし。ただ、オイラは、それがインドだった。タブラだった。ケシャヴ師匠だったってことだ。
今日の師匠は饒舌だった。今日のレッスンが、ヴィパサナ瞑想前の最後だったからかも。師匠が教える時、通常、インド人には基本フレーズだけとにかくやらせる。バリエーションはやらせない。さらに、きつくあたることもあるという。その点、観光客には、とくに日本人には丁寧にあたるという。日本人はセンシティブだから、下手なことを言うと考えこんじゃうからだそうだ。そうか、だから師匠は余計なことは言わないのか。ただ見守ってくれていただけってそういう理由があったのか。いや、そこは、ちゃんと厳しくして欲しかった。そしたら、もっと早くにいろいろ気づけたかもしれなかったのに・・・って、いや、それがいいってワケでもないか。自分で気づけたから、よかったのかも。ただ、褒めて伸ばすっていうやり方は、良しあしだと思う。オイラは今まで褒められてしまったから、へんなやり方で通用すると勘違いしちゃってたワケだし。
さて、今日はレーラをやるはずだったのだが・・・まだバーントが出来ていないオイラをみて、師匠はバーントの続きを教えてくれることに。そして、教えたフレーズが出来ないのを見て、「だったら、これを練習しろ」と単純化したフレーズを教えてくれた。そして、そのフレーズにも苦戦しているオイラをみて、「こうやるんだ。ここに力が入るんだ」と叩く師匠の体を触らせてくれて、筋肉の動きを実感させてくれる。
今までどおりの教えられ方なんですよ。が、やっとこの教わり方がしっくりきた。単純化したフレーズの意味、筋肉の動きの意味・・・これまでのオイラはそこに働かせられる想像力がなかった。いや、それをやることの意義を実感できていなかったためなのかも。最近、そういうことをやることで、パワーがついたり、体が柔らかくなったりして、結果的にフレーズが楽に叩けるようになった。そういうことを実感できるようになった。だから、師匠の教えるやり方の正しさが分かってきたのだ。いや、師匠のやり方を疑っていたワケではない。ただ、分からなかったのだ。何度も例として出すが映画<ベストキット>で少年が「こんな雑用ばかりやってなんになるんだ?空手がうまくなっているのか?」と悩み、止めようとするシーンがある。そこでミヤギ師匠が出したパンチを上手く止められるようになっていることに驚く少年。ここで、やらされていることの正しさを実感できた少年は、以降、修行にうちこむことになる・・・と、まさにそういうことなんですわ。「やっていることが正しい」と実感できること。これがパラダイムシフトになるのだ。
その中で、今日は腕を振り上げる大切さが分かった。こんなことは、第一回目の初日に教わったことだ。そして、言い続けられていたことだ。それが今になってやっと分かった。自分で実感として気づくまで、大切なことは言われていてもスルーしてしまう。これ、人間の悲しいサガ。ただ、いい師匠は、それをやり続けさせる。本人が気づくまで、ひたすら見守りやり続けさせる。もちろん、これは、本人自身がやり続ける意志がないといけないのだが。だから、最低限「これを絶対マスターしたい」という強いモチベーションがあることが前提となる。
とりあえず、明日からヴィパサナ瞑想に突入するので、タブラー修行はいったん中断。が、いい区切りだと思う。ちょっと小休止して、いろいろ自分で考えれる段階に辿り着けた。
さて、ヴィパサナ中、そんな暇があるのかは分からないが、一応タブラを持って行って練習はやろうと思っている。というか、師匠から練習は毎日やれと言われているし。で、そのために、持ち運び用の軽いタブラが必要なのだが・・・師匠がせっついてくれたおかげで、ようやく今日、夜19時にギリギリになって出来上がって、届けてもらった。1.7kgタブラ。持った感じだいぶ軽い。初代のやつで3kgタブラだったから、半分近くの重さになっているワケだ。そりゃ軽く感じるわけだよ。音的には、やはり軽い。が、音の叩き分けはできるし、練習用としては十分。耐久性を考慮しなかったら、もっと軽くできるんじゃないのかなぁ。これ以上掘ると、皮を張る圧力で壊れるからっていう理由でこれ以上軽くしてくれなかっただけだからな。
そして、夜。またコンサートへ。今日も師匠が叩いてくれた。やはり師匠のプレイが一番参考になる。なんてったって、習ったことが登場するから、実際の合奏中、どういうタイミングで習ったフレーズをぶっこめばいいかが、よくわかるのだ。
さて、今日のライブでは、ダンスのパフォーマンスもあった。これまでインドダンスはあまり興味がなかったのだが・・・タブラやインドの合奏のルール的なものがだいぶ分かってきた今、改めて見ると、なかなか面白いということに気づいた。タブラとのかけあいが特に面白い。インド音楽や舞踏は、「知っているからこそ楽しめる」ものなんだな。パッと見で興味を惹くだけの軽薄なポップスではない。多層性理論において、深い部分に面白さが詰まっているエンターテイメントなんだと、改めて思ったのであった。
|
|

|