(English)
I did Vipassana Meditation all day long.
|
|
4時起床。今日もヴィパサナ瞑想の一日が始まる。しかし、まだ2日しか終わっていないのか。あと8日もこんな日が続くってのが、なんか途方もない絶望感を感じる。いや、決して楽しくないワケではない。一人で居ることも、誰とも喋らないことも、一日中座っていることも、オイラにとってはそんなに苦ではない。食事も美味しいし。生活で困るようなことも何も起きない。が、何も起きないことがずっと続くってのが、絶望感へといざなうのだ。
人間の心は常に刺激を求めているんだと思う。退屈を一番に嫌う。オイラなんて典型的なその手の人間だ。退屈な時間をなくすために、一日中仕事をし、ワーカホリックになり、それでも余る時間は、ひたすら趣味で穴埋めしてきた。マンガ、音楽、映画・・・これらは、退屈な時間をつぶすために没頭してきたと言ってもいいだろう。旅もそうだ。旅をしてても、常に時間を埋めることばかりをやっていた。ただ、旅中、そうやって、外からの刺激で退屈を埋めていくことに虚しさを覚えたオイラは、今度は、妄想という自己発電によって退屈時間を埋める術を身につけた。これだと、延々に時間がつぶせるようになる。インドでしばしば起こる待ち時間。妄想という力によって、8時間くらい列車が遅延しても、全然平気になった。
で、このヴィパサナ瞑想だ。瞑想の時間の間、妄想にふけることで瞑想時間をも苦にしないことは可能なのだ。実際初日にオイラはそうやって過ごした。が、一応心に湧き起こることを無理に抑圧することはない、とは言われるものの、あまり妄想で頭をいっぱいにしてしまうのは、なんだか違うと思いまして。それだと、今までのオイラと一緒じゃないかと。わざわざヴィパサナ瞑想をやる意味がないじゃないかと。で、1日目夜の講話を聞いてから、昨日はまる一日、妄想を抑えて呼吸に集中することにしたのですが、これが、苦なんですわ。呼吸って基本的に規則正しいじゃないですか。しかも、平常心でありなさいと言われているので、なおさら呼吸は乱れず、変化がない。それをずっとただ観察し続けろってのは・・・退屈なんですわ。退屈嫌いのオイラの心が、とにかく拒否反応を示してくるんですわ。
実は、ヴィパサナ瞑想自体は退屈なものではない。体に起こる変化に気づくのがヴィパサナ瞑想の本質なので、本来は、退屈などしないものなのだ。が、その世界に入り込むためのテクニックである気の集中というものを身につけないと、その変化に気づき楽しむことが難しい。だから、そのテクニックを身につける最中である今、猛烈な退屈心と格闘しなくちゃならない、って状況なのだ。
そんな感じで、本日も退屈な一日を送るのかと思っていたら・・・昼飯後、午後一番の瞑想で、いきなり、これまでにない感覚に体が囚われた。体が何かに持っていかれるというか、濁流のようなスゴイ流れに身が投げ込まれたっていうか。ふおお、これが、ひょっとして瞑想的にキマルって状態なんですか!?っていう状態になったのだ。これは、楽しい、ってことで、より一層瞑想に打ち込める心構えになった。が、たぶん、そこで欲が発生してしまったんだろう。さっきのをもう一度体験したいという欲が集中力を裂くのだろう。その日、二度とその状態に入ることはなかった。
さて、今日の夜の講話はまた日本語テープが復活したというので、日本語で。物理学者が20世紀になって発見した「すべてのモノは波でできている」という定理を、ブッダは3000年前に体感していたという話だった。実験道具もない3000年物昔に、そんなことが分かるワケないじゃん、って思ってその時は話を聞いていたのだが・・・のちに、ヴィパサナ的にちょっと覚醒してきた自分の感覚からすると、ブッダのその気づきもありえない話じゃないな、と思うようになりまして。そういうものをも、実感として体感できるのが、ヴィパサナ瞑想の凄さなのだ。「この世界の真理を体感できる」つまり、この世界の構成物質である原子も、その元である波動も、体感できちゃうのが、ヴィパサナなのだ。
それは超常現象と呼ばれるモノかもしれない。が、それは、世界の捉え方の違いなだけなのだ。いわゆる生命や人間というものに自分を規定し、その視点から即物論的に世界を見てしまうと、そういうものは見れない。だから超常現象と呼ぶ。一方、生命や人間ではない視点で世界を見れば、それは普通のことなのだ。つまり、ヴィパサナとは、その視点の変換を行う作業。人間から吸血鬼になる以上のパラダイムシフトを行わせるものなのだ。
いや、ちょっと違うか。そもそも、これらの機能は自分の中に備わっているもの。だからたまに知覚することができる。が、人間の欲、生物としての使命のようなものが、それを隠してしまう。だから、それを取りのぞけば、真理が見える、それがヴィパサナなのだ。
なんてことは、3日目で分かったワケじゃない。10日間のヴィパサナ体験を通じて感じれたこと。そして、これは、とことんやらねば辿り着けない。だからこそ10日、缶詰め状態でやらされるのだ。
さらに、ヴィパサナは実践を通じて体感させることが目的となる。なぜなら、体感することのみがリアルだからだ。それ以外に真実を掴むことはできない。今日の講話でそれをレストランでの食事に例えていたのが分かりやすかった。メニューが解説書。これで妄想する。そして次に、食べている人達の雰囲気。観察することで判断する。そして最後に自分で食べることで実感。食べ物のリアルは最後の自分で食べること以外にない。他は全て概念でしかないのだ、と。確かに、そして、オイラは、これまで第一段階のメニューを読むことしかしてこなかったのかも、と思いまして。自分で観察することすら怠っていた。メニューを見て、料理が分かった気になっていた。食べもせず。もらった薬を飲みもせず、ありがたがって神棚に飾っているのと同じだ。だから、リアリティが自分の中からどんどんなくなってしまっていたのだ。
メニューだけでなく、他人のプレイを観察し、自分でやってみて、自分のプレイをも観察する、この大切さをタブラ修行を通じてようやく感じ始めていた。だからこそ、タブラ修行がオイラにとって大事なターニングポイントになりかけている。そのことを今日の講話は再確認させてくれた。そして、そんなタブラ修行で、足りなかったのは、観察する大事だに気づいたものの、その観察方法を知らなかったってことだ。それを補完してくれるのが、この後延々続くヴィパサナ的瞑想法となるのだった。
さて、こういったことは、実際にやってみないとワカラナイ。目が見えない友人に<白い>ということがどういうことなのか教えるのと同じくらい言葉だけでは伝えられないものなのだ。<白さ>とは、実際に白いものを見た人にしか伝わらないものなのだ。
|
|

|