Vipassana Meditation 4th Days
ヴィパサナ瞑想4日目/この旅一番の超常現象体験。人生に一番重要なのは集中力だ

2015.12.07 / India(Sarnath) 本日 自転車0km走行 : Total 57751km走行
天気:曇
朝飯→確かポリッジ 昼飯→カレー的なもの 夕飯→チウラ / 宿→ヴィパサナセンター(個室)

(English)
I did Vipassana Meditation all day long.



 ヴィパサナ4日目。今日も朝4時に起床。昨日おかしなものを体で感じることができたり、変化が見えてきて面白くはなってきたが、それが一瞬だけのことだということも分かり、その他の膨大な怠惰というかなんというか、その時間のことを考えるとうんざりする。まだあと7日もあるのか・・・

 今日も瞑想が始まったが、すぐには何も見えてこない。昨日の感じはやってこない。そんな状態で午前中が過ぎ、昼飯後の1時間の瞑想の後のトレーニング瞑想で、「これまでの集中力強化の方法は終わり。これから本格的なヴィパサナ瞑想の方法に入る」ということになった。え、ちょっと待ってくださいよ。集中力強化の方法は終わりって、そもそも集中力が何か分かってないし、それが身についたかどうかなんて全然分かんないんですケドも。

 そう、そもそも、集中力ってなんなのか、小さい頃から分からなかった。よく、勉強する時「集中してやりなさい」とか言われるじゃないですか。でも、何をもって集中なのか全然分からないワケですよ。ただ机に座っていることが集中なのか?、と。

 だから、今回も、フォーカスを鼻に集中しろと言われても、正直そのフォーカスなるものがなんであり、それを鼻に集中するってのがどういうことなのか、分からなかった。とりあえず、鼻の空気の流れを観察しろっていうことは分かったので、それだけはやっていたけど。で、これをやっていくうちに、フォーカスってものが何か分かるようになるのかな、と思いきや、3日経っても分からない。分かってないのに、それは終わりって言われても。次に本格的なヴィパサナに移るって言われても。

 ヤバい、一日目に、言われたままにはやらず、勝手に妄想をしていたから、遅れをとってしまったのか、なんて思い、ちと凹む。

 さて、そんなオイラの思いとは関係なく、瞑想は、ヴィパサナ方法に切り替わることに。これまで疲れたりしびれたりしたら、体を動かすことは許されていたのだが、これからは1日3回、朝昼晩の1時間の瞑想タイムでは体を動かすことはダメとのこと。なるほど、それだけでいいのなら、これまでと同じ。オイラは引き続き鼻集中をやっておけばいいか、と思ったところ、さらに続きがあって、鼻に集中していたフォーカスを頭のてっぺんからつま先まで、動かして全身を観察して、気づきを探せっていうじゃないですか。どうやら、そうやって意識フォーカスを体全体に移動させていくのが、ヴィパサナ瞑想の実践方法らしい。

 いやいや、だから、フォーカスってのが分からないのだから、それを動かすなんて無理ですよ・・・と思いながら、とりあえず、鼻呼吸の観察に費やしていた意識を頭のてっぺんに向けてみる。が、やはりよく分からない。頭のてっぺんに意識がいけているのかすら分からない。そのままその意識的なものを頭蓋骨、額、眉、目、鼻、口と降ろしていく。鼻だけは息が動いているので、何かを感じれるのだが、それ以外は全く何も感じない。フォーカスを動かせているのか、まったく分からない。

 と、意識なるものをそのまま下げ続け、首から右肩に降ろし、そのまま右腕の上腕に向けたところで・・・突然何かを感じた。元気玉みたいなのが発生。そして、その元気玉、オイラの意識なるものに従って、肩から上腕そして、肘、手首、指先に向かってグリグリと動かせるじゃないですか。

 ふおお、なんだこれ!?

 やばい、やばいことが体に起こっちゃっているぞ。なんだか、やばすぎて、笑いがこみ上げてきた。と、オイラの真後ろのメディテイターが笑っている声が聞こえてきた。お、ひょっとして、後ろの彼も、オイラと同じことを感じちゃっているのか?

 その元気玉は右腕に留まらず、左腕、そして、喉から体の中をグルグル動いた。その感じがつかめたら、頭に戻っても、頭の中も動き続ける。ただ、なぜか、足に届けようとすると、急に元気玉の元気がなくなるのがちと残念。

 しかし、まぁ、ビックリ体験ですわ。この旅一番の超常現象体験。これが、<気>と言われるものなのか。そして、集中力と呼ぶものなのか。きっと、鼻だけを観察し続けている間も、あったのだろう。というか、これまでのオイラの人生にもあったのだろう。ただ、気づかなかった。そして、これが、こんなにもコントローラブルなものだってことを知らなかった。

 鼻に集中しているだけだと、集中しているのかすら分からなくなる。実は、他の瞑想法でも集中をしなさいと言われる。集中力を上げることによって、瞑想状態に入るものがほとんどなのだ。オイラが前にやった炎を見続ける瞑想法とか、まさにそれだった。心に水晶玉のイメージを抱き、それだけを考えなさいってのもそれだ。が、そういった方法だと、集中しているかが分からないんですよ。集中ってことがどんなことなのかが分からない。

 そこへいくと、このヴィパサナのやり方は、集中力がなんたるかを教えてくれた。動かすことで、変化が生じる。人間の知覚は変化に敏感。変化することで、ナニかがあることを感じ取れるのだ。

 それにしても、この感覚はめっちゃ面白いし、気持ちいいじゃないか。これが、瞑想か?と思ったけど、実は、これは単に気を感じコントロールできるようになっただけ。これは瞑想のための技術、道具立てに過ぎないのだ。これを使って瞑想に入っていくってワケだ。つまり、この3日半は瞑想に入るための技術を身につけたにすぎないのだが・・・オイラにとってはこれを身につけられただけでも、十分だと思えるほどのデッカイできごとだった。

 この元気玉のコントロール感が一番強かったのがこの最初に元気玉を感じた瞬間だった。後からもずっとコントロールはできるのだが、元気玉自体の感覚は弱まった。というのも、実は、この時、オイラは無意識だったのだが、右手に元気玉を感じた時、右手自体が相当動いてたようで。つまり、気自体を感じていたのではなく、気と連動して動いた右手の動きを感じていたってからくりだったんですよ。気自体の感覚は非常に微弱。だから、相当意識しないとやはり気づけないものなのだが、それに連動して動く肉体の動きは、感じやすい。オイラが、明確に元気玉を感じれたのには、そういう仕掛けがあったのですわ。

 まぁ、一度捉えてしまえば、微弱であっても分かるようになるもの。今日はずっとこの元気玉をコントロールして遊んでいた。そして、ヨガで言う7門の場所にこの気を持っていくと、他では感じれないものが感じれるということも発見。う~む、ホント、面白いな、これ。

 さて、夜の講話はまたテープの調子がおかしいということで、再び英語のビデオを見ることに。で、2日目にはよくわからなかった話が、突然分かるようになったことに驚いた。いや、ここでは誰とも話していないし、英語の勉強もしていないのだから、英語力が急激に伸びるなんてことはありえない。なんで、こんなに分かるんだろうと思ったところ・・・

 集中力だ、と思い至った。英語だけを聞いていると分かるのだが、なんでこんなに分かるんだろうと考え始めると、途端に英語の講話内容が分からなくなる。要は、聞けば分かるのに聞いていなかっただけの話だったのだ。いや、正確に言うと、英語は全部が分かるワケではない。ところどころで分からない単語や言い回しが出てきて、話が見えなくなる瞬間がある。で、今まではそこで脱落していたんですよ。一度話が見えなくなったら、もう他のことを頭で考えていた。聞いていることとは別の妄想を頭の中で展開していた。つまり、集中力が違うほうへ行ってしまっていたのだ。ただ、これは無意識だった。そこへいくと、集中力がコントロールできるようになったので、一度話が見えなくなっても、集中力をそのままビデオに向け話を聞き続けるようにした。すると、また分かる単語が出てきて、話が見えてきたんですわ。結果的に虫食い状態で、話の全部が分かったワケではないが、以前は聞いてなったから掴むことすらできなかった話の全貌が、なんとなくは掴めたんですよ。

 なるほど、集中力はこうやって使えばいいのか。この集中力は、ヴィパサナだけでなく、いろんなところに使えるんじゃん。ホント、これが身につけられただけでもやった甲斐があったってもんだ。

一度分かっちゃえば、後は使うだけ。自転車に乗れるようになるのと同じだ。が、分かるまで使えないのだ、これ。体の中にあるものなのに。あ~、もったいない。44年間も使わずにいたことが悔やまれる。

 



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