(English)
I did Vipassana Meditation all day long.
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昨日の筋肉のテンション探索が、意外にも集中力アップの効果をもたらしたのか、今日はなんだか昨日までより体の感度がいい。
例えば、座っている時、手を足の上に乗せているのだが、その時接触している手と足の部分の圧力とかを詳細に感じれるようになったのだ。今までそこはスルーしてしまっていた。
さて、昨日、疲れないための姿勢を探ったのだが、まだ完全な体勢には辿り着いておらず、やはり、長い時間座っていると疲れて体勢を崩したくなってきた。なので、足を崩したところ・・・それまで圧迫していた足が急に開放され、圧力が一気に抜けていく様子が感じられた。と、ここで、悟りが生じた。
そうか、これがリアルなんだ、と。
世界はこの感覚でしかないのだ。そして、その感覚は移ろい時には消えていくものなのだ、と。
仏教でいう、諸行無常、そして梵我一致、これを一気に体感できてしまった(たぶん)。いや、諸行無常とか梵我一致ってのは、言葉では以前から知っていた。けど、それは概念でしかなく、自分のものではなかった。それが、今、自分の体験として身に舞い降りてきた。
足のしびれなんて、誰でも感じるものであり、それが次第に消えていくのも誰もが感じるもの。でも、それをどう解釈するかが、人それぞれ。ブッダはそこに世の中の仕組みの本質を解釈として加えたのだ。オイラは、その解釈をなぞっただけではあるが。実は、ヴィパサナに入る前に、仏教的な解釈は少々頭に入れておいた方がいい。そうした方が、そうか、この現象が仏教的にこう解釈されたものなのか、という思いに至れる。というか、ブッダの悟りの追体験ができる。何もないところから、ブッダの悟りに至るのは、たぶん、難しい。
それにしても、この感覚言葉にするのは非常に難しい。それこそ、目の見えない友人に白いという概念を伝えなきゃいけないようなことだ。ブッダさんが、始め、気づいたことを誰にも伝えないでおこうと思ったのも、分かる気がする。
これは、世界をどう捉えるか、という視点の一つなのだ。世の中にはそれぞれ物質が存在している、リアルな物質の世界があるという視点とは違い、リアルなのは、自分の感覚で感じれることだけであり、それ以外は全て概念にすぎない、という視点が、ヴィパサナ的世界の視点。
これは、大きなパラダイムシフトであり、ある意味、人間だったのが、吸血鬼に変わるくらいの飛躍となる(藤子・F・不二雄先生のSF短編「流血鬼」)。
通常、こんなことを話で聞いても、なるほどね、と思うだけなのだが、ヴィパサナはそれを体験させて、実感させてしまうところが、強いのだ。だって、自分で体感してしまうんだから。これ以上強いものはない。
ヴィパサナ修行が目をつぶって視覚情報を使わないのは、視覚というのは、概念が入り込む要素がとても大きいからだ。純粋な視覚情報は、ただの光でしかない。そこに座布団が見えるとか、目の前に別のメディテイターが座っているというのは、概念が作り上げた幻想にしかすぎない。たまたま概念と実感が一致しているから、そう思い込んでいるだけであって、実感はただの光の集合にしか過ぎない。
つまり、純粋に感覚器で感じていることだけがリアルであり、それ以外は概念でしかない。つまり、本当の世界は、自分の中にしかないってことにもなる。梵我一致だ。
世界は幻想にすぎない、ってのは、まるでバーチャルリアリティーのようなものだが、それと全然違うのは、自分の感覚というリアルが中心にあるということ。
オイラが、世界にリアリティを感じれなくなった要因もこれで腑に落ちた。そして体内センサーの活性化を望んで旅に出た理由も分かった。すべて、このリアルを復活させるためだったのだ。人間社会とくに現代社会で生きていると、概念だけで生きていくことになる。それは、身体感覚というリアルを感じさせる装置を、鈍化させるものだったのだ。
ヴィパサナ的な視点で世の中を見ると、オイラが抱えていたいろんな悩みや疑問が次々と解釈できるようになる。なるほど、これは、社会を読み解く技術となりうる。ブッダさんが、そしてその弟子たちが加えた仏教的解釈を信じるか、信じないか、は、それはもはや概念の話なので、人それぞれ。人生は正しく生きなさいとかいうのを信じて実行するのも、うさんくさく感じて無視するのも人それぞれ。でも、ヴィパサナのピュアな部分、リアルとはなんなのか、ということに関しては、生き物すべてに共通するもの。これは、絶対に、体感して、実感すべきだと、強く思う。
これが実感できないから、悩み苦しむのだ。そして、その要因を探り切れないのだ。
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