(English)
Vipassana Meditation was finished. I went back to Varanasi.
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朝、4時起き。英語で説明されていたのだが、なぜ今日はミニダンマホール集合なのかワカラナイまま、ミニダンマホールへ行く。どうやら今日は、グエンカ・グルジーの最後のビデオ講話を見るようだ。だから英語用ビデオを見る旅行者メディテイターはミニダンマホールだったのか。言葉が分からないとこういうところで、困る。まぁ、結局最後にはどうにかなるのではあるが。
最後に皆一緒に慈愛瞑想をするというので、ホールへ移動。最後の合同瞑想だ。
それが終わって、部屋を掃除。シーツやブランケットを返し、飯。同じ日本人メディテイターユータさんと話す。いやぁ、10日ぶりの他人との会話だ。しかし・・・10日も喋っていなかった割にはあまり会話に飢えていなかった。これまでの旅も、何日か誰とm話さないとかいう状況はあったから、あまり違和感がないのかも。
ふー・・・ともかく、これでやっとヴィパサナ合宿が本当に終わったよ。ホッとしている反面、名残惜しいような・・・複雑な気持ちを抱えながら、荷物を持って部屋から出る。サールナートの街までオートリキシャで行くことになっているので、それを待つ。皆思い思いだ。ほとんど会話をしていない人達ばかりだが、なんか妙な連帯感がある。ともに苦行を乗り越えた仲だからなんだろうな。
さて、みんなでチャーターしたオートリキシャに乗って、サールナートの市街へ。そこから別のオートリキシャに乗り換えバラナシへ。一台のオートリキシャに運転手入れて6人乗り。結構無茶だが、インドではこれくらいは普通。料金シェアして一人80ルピー。そういえば、そのオートリキシャに乗っている時、前に座っていた中国人メディテイターが、「日本の首相がバラナシに来てたみたいだよ」と教えてくれた。うむむ、オイラが寺に籠っている間にそんなことになっているとは。
バラナシに到着すると、安倍さんの写真があちこちにデカデカと飾られていた。出会うインド人も「お前は日本人か?シンゾー・アベはいいやつだ」と話しかけてくる。
それにしても、バラナシは騒々しいな。静かなところで瞑想をやった後だから余計に感じる。
さて、ジョティカフェに戻る。「ヴィパサナお疲れ」ってことで迎えてくれた。いやいや、帰る家があるっていいな。
そして、パソコンを取り出して、ネット。裏サンデーの連載の続きを読みまくる。と、そこへ、ユータさんがやってきた。オイラとは違う乗り物でバラナシに向かったユータさん。とりあえず、オイラがジョティカフェに泊まっていることを伝えておいたので、ここで再会。ヴィパサナトークで盛り上がる。いやぁ、この体験は語りたくなるものだが、やってない人に語っても分かってくれない部分が多すぎる。体験した人と語っていると「ああ、わかる」っていうことばかりで、そこが面白い。
昼になったので、ユータさんとはお別れして、オイラはケシャヴ師匠のところへ挨拶に。本当は帰ってきてすぐにレッスンをやりたかったのだが、それを師匠に言うと「瞑想の後は、一日空けたほうがいい。レッスンは次の日からだ。戻ってきた日は挨拶だけ来い」と言われてたので、今日はレッスンはないはずだった。
が、行ってみたら・・・なぜかタブラーの前に座らされ、「叩け」と。いや、今日は挨拶だけのつもりだったんですけど・・・しかも、合宿中は音出し禁止で、タブラを持って行ったけど、一度も叩けなかったんですけど・・・
まぁ、叩いてみたんですわ。すると、以前より叩けるようになっているじゃないですか。っていうか、以前とは違った感覚が生じるじゃないですか。これは、ヴィパサナ効果なのか、それとも、合宿中本当はダメだったんだけど、休憩中にひたすら手の動きとフレーズの歌い出し訓練をやったおかげなのか。
叩きながら、その辺のことを師匠に話したんですわ。最初から師匠には体の力が入りすぎているとか言われていながらも、全くそれが治っていなかったっていうのは、カラダを意識できなかったからだって、いう、ヴィパサナ中に分かった知見とかも、交えて。
それを師匠は、にこやかに聞いてくれた。たぶん、というか、絶対師匠は、そんなことは当たり前だろうって思っていると思う。そして、ようやくこいつは、そこに到達したか、時間がかかったなって思ったんだと思う。高みに居る人から見れば、達していないのは分かるのだが、高みに上っていない人からすると、達しているのかどうかが分からない。これが無明ということだし、だからこそ出来ているでしょ、という承認を他人に過剰に求める。本当に出来るようになれば、他人の承認なんていらなくなるのに。
一応、ある程度の山は登れたのかもしれない、と思った。が、本当はまだ高い山が聳えている。だから、師匠という承認はずっと必要。これまでは、ただテクニックを教えてくれるのが師匠だと思っていたけど、そうじゃないんだな。自分がそこへ達しているかどうかを見てくれる人が、師匠なのだ。だからこそ、常に必要な存在。今の自分を見てもらって、いいか悪いか判断してもらうだけでもいい。この師匠と言う存在を失ってしまったのが、オイラにとってこれまでの人生の敗因だった。
さて、叩いていて、これまでと違う感じがすると書いた。これはどういうことかというと、今までは、音が出ることが太鼓を叩くってことだと思っていた。だからこそ、叩けば音が鳴る太鼓は簡単だと思っていたのだ。確かに、始めはそれでいい。ケド、やり始めたら、そうではない何かが必要だって思ってきた。でも、それが何かがずっと分からなかった。
それに、今回気づけたのだ。ヨガをやり、ヴィパサナをやることで、自分の身体構造と、感覚(集中力)をコントロールすることを知った。そして、それを主体として楽器と向き合うことで、叩くということが、音を出すために手を打面に当てるということではなく、体をコントロールした結果手が打面に当たり音が出るんだと認識が変わったのだ。この意識改革は、太鼓人生で一番のパラダイムシフト。
体を綺麗にコントロールすれば、こういう音が出ると思う。それは、つまり、音を出すことに集中せず、体のどこの筋肉や骨格を動かすかということに集中するってことだ。綺麗な体の動きが音を作るのだ。だから、音を出すことに集中すればするほど、体が見れなくて、逆に音がでなくなる。オイラはこの悪循環に陥っていた。この悪循環は、身体性を意識できないと、抜け出せない罠。だから、オイラは、ヨガやヴィパサナを体験しないと、ここへは辿り着けなかったんだろう。ケシャヴ師匠がずっとそれを意識させてくれるような指導をしてはくれていた。だからこそ、ヴィパサナが分かったっていうのもある。いい意味での相乗効果。たぶん、タブラだけでもダメだったし、ヨガだけでもダメだったし、ヴィパサナだけやっても、どれもイマイチピンとこなかっただろう。3つをまとめてインドでやったから、この境地に至れたのだ。
そして、師匠が教え始めたのは、<ナ>の音だった。何度も分かったつもりになっていた<ナ>の音。やっぱり分かっていなかった。っていうか、<ナ>の音への取り組むオイラの心構えが変わったから、今回は分かり方が変わったというのが正しいかも。というか、これがおそらく本当の正解なのだ。本当の正解とは、叩き方がちょっと違うとかそういうことじゃなく、身体が分かり、意識をコントロールして叩くということ、だ。
つまり、目立つのは<ナ>の音だっただけで、実は他の叩き方も、ダメだったってことだ。ということで、振り出しに戻った。師匠が次に教えてくれたのは、テテの音。第一回目のレッスンの初日に教えてくれた叩き方だ。フレーズ自体は簡単。だから、当時のオイラは、すぐに出来たと思っていた。が、今のオイラは違う。体のコントロール的に捉えると、コントロールしきれていないのが実感できるのだ。確かに音は鳴る。だから、出来たと誤解しやすいのだが、深い意味では出来ていない。
次に師匠が教え直してくれたのが人差し指と中指で叩くテテフレーズ。これは、中指と人差し指は徹底的に鍛えたせいがあってか、意識のコントロールが比較的スムーズにできることが判明。身体性を意識せずにやっても、いつの間にか身体性に及んでいることがある。が、それは偶然でしかない。意識的に身体性を捉えることが、本当なのだ。
そして、デラデラパターンも直してもらった後、テテフレーズとデラデラフレーズを組み合わせた高速動きへ。これも、格好だけ真似していて、身体の中身のコントロールが全然出来ていなかったことを自覚。こういう風に、自覚できるのが面白い。そして、この自覚が出来るようになると、単純なフレーズの練習が面白くなる。今まで単に音を出すだけだと、音が出るからそれ以上の楽しみがなく、すぐに飽きてつまらなくなったのだが、身体のコントロールの練習と捉えると、やらねばならない課題が次々と出てきて、それを克服していくのが、どんどん面白くなる。「なんでそんな単調なことを繰り返していられるの?」と見た目には思うが、本人的に身体の中では、ものすごく複雑なことをやっているのだ。
フレーズ的には最初に戻ったが、これは振り出しに戻ったワケじゃない。とは思うものの、ちゃんと出来る人は、同じフレーズをこのレベルから練習を始めてたわけだ。そうか、これが個人差。1ステージのオイラが2ステージに居る人を見て、同じことが出来るって思うこと自体が錯覚だったのだ。
基本に戻れという意味がようやく分かった。
これは、このことが分かっていない人にやらせても意味がない。そういう人にとっては、基本に戻ることはただ退屈が待っているだけなのだ。
見た目的には同じようなことでも、内面ステージレベルによって、やっていることが全然違う。そして、その違いは、微細な違いとしてしか出てこない。が、その微細な違いがデカい。その違いが、美しいものとそうでないものの違いとなる。深い内面ステージレベルに到達している人が出すものは、美しい。体の動き一つをよく見れば、分かる。が、その微細な違いに気づけないのであれば・・・それは、相当ヤバい。以前のオイラだ。
そして、その違いが、生楽器を使ってやることと打ち込みの違いにつながる。生楽器は深いところに到達していないと、そもそも聞けるものにならないのだが、打ち込みは、深いところに到達していないにも関わらず、聞けるものが出来てしまう。そこで勘違いも生じやすい。やっているほうも出来ているって思っちゃう。が、聞かされている方は、なんだか疑問が生じるはず。この疑問の正体が、この内面の差なのだ。これが微細な違いとなって出てくる。人の感覚は意外と繊細なので、この微細な違いをかぎ分けてしまうものなのだ。
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