I can do it
出来るようにみせることと本当に出来ることの違い/タブラ修行108日目

2015.12.15 / India(Varanasi) 本日 自転車0km走行 : Total 57751km走行
天気:晴 ネット:1
朝飯→サンドイッチ 昼飯→師匠宅でカレーランチ 夕飯→から揚げ定食 / 宿→Joti Cafe(ダブル300ルピー)

(English)
I stayed in Varanasi.



 朝4時に目が覚めた。もうヴィパサナ瞑想合宿は終わったので4時に起きる必要はないのに。10日間ですでに4時に目覚めることが習慣化してしまったようだ。せっかくなので、そのまま起きて、瞑想をやってみることに。

 一応、合宿が終わっても朝晩1時間ずつ瞑想は続けなさいとは言われてたんですよ。で、これまでのオイラだったら、戻った途端に次のことをやりはじめ、せっかくやったことが身に定着することなく忘れ去ってしまうという愚行を犯していたところなのだが、タブラ修行を通じて、潜在意識に刷り込むくらいやりこまないと、やったことが単にやったことで終わってしまうということを理解したオイラ。いろいろと気づきを与えてくれたヴィパサナ瞑想を差し置いてまでやるべき次のことなんて、タブラ修行くらいなので、ここは戻ってからも、毎日瞑想は続けようか、と。

 まぁ、そう思えるのは、一か所に滞在している今だから。これが移動旅の真っただ中であれば、移動する旅という次のことに突入してしまい、ヴィパサナを定着させることはできなかっただろう。この辺が、旅と修行のバランスの難しいところなんですわ。旅なんだから、と移動することを優先しがちなのだが、そうすると、やったことが身につかない。本当に身につけたいことは、ある程度定住して、それしかやらない環境に没入しないといけないのだ。そうすると、それはもはや旅ではなく、暮らしになってしまうのでは?という葛藤が生まれてしまう。そこには、割り切りが必要。移動旅をしながら何かを身につけたい、という二兎を追うことは、ほぼほぼ不可能であることを理解すべき。どうしても、旅という言葉に執着したいのであれば、定住することも旅の一つだと思い込めばいい。沈没は悪いことじゃない。むしろそれも旅の重要な一面なのだと思えばいい。

 さて、朝4時半から1時間ほど瞑想していると、サールナートの合宿所とはまた違った感覚を味わえた。まだ暗い時間。目をあけてみている分には、世界は何も変わっていないのだが、目をつぶって瞑想していると、おそらく5時過ぎくらいから、町が起きるのを感じれたのだ。それにともなって、自分のカラダも目覚めていくのを感じることができた。梵我一致、つまり、世界が目覚めるのを感じることは、自分も目覚めるということ。この感覚は斬新だった。

 瞑想の後は日記書き。ヴィパサナについて振り返り日記を書かねばならない。合宿最中は読むこと書くことが禁止されてましたから。10日分ためこんでしまっているのですよ。

 書くことが山のようにあるので、時間がいくらあっても足りない。朝早くに起きたから十分書き進められるだろうと思っていたのに、全然進まなかった。あっと今に9時過ぎとなってしまい、慌てて朝食を食べに下に降りて、タブラレッスン準備。

 本日のレッスンは、また基本からかと思っていたのだが・・・一応、新しいフレーズを教えてもらった。オイラ的には、また基本からでも全然かまわなかったのだが。この辺も以前のオイラと明確に変わったところだな。新しいことを知ることより、知っていることをちゃんと身につけることを優先出来るようになった。この心理変化のパラダイムシフトは、デカい。というか、このパラダイムシフトはもっと若いうちに起きて欲しかった。そうすれば、もっともっといい人生を送れたに違いない・・・と思ったりもしたのだが、そう思うのは、ヴィパサナ的には意味がないってことに気付かされたので、そんなことを悩んでもしょうがない。今になって、ようやく出来るようになったのは、それはそれで、単なる流れなのだから。

 さて、新しいフレーズ。ディナゲナパターンのバリエーションパターンだったのだが、フレーズ的には難しそうじゃない。が、新しい叩き方を教わりそれを使ってやると妙に難しいフレーズになってしまった。右手と左手を完全に独立させて叩かねばならない奏法なのだ。ただ、こういうの、ドラムをやってきたオイラからすれば、実は得意。これまで通り無意識にやれば、すぐに叩けるようになる。

 が、実はそのすぐに叩けるようになったものは、出来るように見せているだけであって、実際に出来ることとは違うということに気づいてしまったオイラ。以前なら、すぐに出来るように見せれる状態にもっていき「どうです、出来たでしょう」と心の状態になっていた。が、ヴィパサナでいろんな気づきを得てしまった今、そんな心の状態にもっていけなくなってしまった。

 フレーズを理解すること以上に、肉体に・・・右手と左手を意識的にコントロールすることに意識がまず行ってしまうのだ。で、当然、右手と左手を独立させて動かさねばならないフレーズに対して、それぞれ右と左の肉体に意識を向けるというのは、容易ではない。つまり、容易ではない新しい課題が目の前に立ちはだかることになり、とても、出来たでしょうという心の状態に持っていけないようになってしまったのだ。

 これを乗り越えてこそ、本当に出来るようになったってこと。いや、それは今のステージにいるオイラから見た場合のだけの話であって、それを乗り越えたら、本当に出来るようになると思っていたことも、実は、まだ出来るように見せているだけの状態って気づくのかもしれない。今までの<ナ>の叩き方に代表される流れは、まさにその繰り返しだった。

 結局、修行ってこういうことなのだ。辿り着けない高い山にひたすら登るってことなのだ。

 さて、新しいフレーズ的にはこれ1つだったのだが、今日はまたいろいろベーシックな部分を直された。そして、また気づきがたくさんあった。

 気づいたこと1。ダラゲナパターンのラの音の叩き方。このラはダと叩く時の手の型が変わらない。薬指とかを上げてしまわない。薬指を上げるのは叩き終わった後。

 気づいたこと2。叩く時、指を広げるか狭めるかで音が変わる。今まではこの違いを意識して叩いてなかったが、これを意識してコントロールできるようにならねばならない。

 気づいたこと3。特にテテパターンを叩く時。叩いた後、手は押さえたまま。これも、音の違いになる。響きを残すかミュートするか。ここも意識的にコントロールできるようにならねば。

 気づいたこと4。ナの音を叩く時、スラップ叩きをせねばならない。ということは分かっていたが、そのスラップ叩きが指をタブラに乗せている状態でできなかった。で、出来なかったのは、人差し指の中指の反り返り力がないからだと、ようやく気づいた。ここを強化しないと、ナの音はいつまでたってもちゃんと鳴らせるようにならない。

 そして、ようやくオイラが<本当に出来る>ということがどういうことか分かってきたのを師匠が感じたからか、師匠は、改めて<本当に出来るようになる>ための練習パターンを復唱してくれた。この練習パターンは、以前教えてもらったこと。ノートにしっかりフレーズが書かれている。が、あまりにも単調なので、オイラはすっ飛ばしていたんですよねぇ・・・もちろん、今は、このフレーズの大切さが分かる。だからこそ、師匠がもう一度繰り返してくれている。ちなみに、この練習パターンは5つあるという。全部一日30分ずつやるべしと。時間がない日でも、これだけは欠かすなと。つまり、最低でも一日2時間半はタブラ練習に費やさねばならないってことだ。まぁ、望むところだ。今までのオイラなら、絶対にやらなかったところだけど、これからのオイラなら出来る気がする。とりあえず、今日3つ復唱してもらった。あと2つもすでに教えてもらっているはずなのだが・・・どれなんだっけ?

 さて、師匠の所でそのまま4時まで練習し、宿に戻って昼寝。昼寝もヴィパサナ合宿の時に毎日やっていたから、習慣化してしまっている。昼寝後、部屋でタブラ練習をした後、6時になったので、食堂スパイシーバイツへ。今日はヤスさんたちと一緒に飯を食べようという話になっているのだ。ヤスさんと同じ宿のシタール修行をしているヒロさんと、今日バラナシに到着したという若い旅人くん。オイラを入れて4人でから揚げ定食を食べながら、旅談義。というか、ほとんと音楽話になってしまった。あと、ヤスさんが中国の大学で漢方医学を学んだ人だということが判明。なるほど、その流れで、インドでアーユルベーダとかタイでマッサージとかをやっているわけですか。なかなか楽しい夜でした。






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