(English)
I stayed in Varanasi.
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今日もゲラナガパターンのバリエーション。昨日はマスターしたぜ、と思って練習を終えたのに、やっぱり、今日も、師匠からダメだしがされた。昨日直したはずのディンネタカのネの音がまだダメだといのだ。この音は指先で叩かなければならないのに、オイラは指の平で叩いちゃっているというのだ。ああ、そういえば、以前、同じことを師匠に言われたことがある気がする。う~む、これは凹む指摘だ。今までの指摘は、なんだかんだいって、オイラが気づいていなかったことを気付かせてくれる指摘だったのに、これは、オイラが気づいていながら放っておいたことだからだ。知らないで出来ないのはしょうがない。でも、知っていてやらないのは最悪だ。
それと、ディンネタカのディンの音を右手で叩く時、手の角度がズレてしまうことを指摘された。これも、ずいぶん前から言われ続けていることだ。それこそ、第一回目の修行で習った時から言われ続けている。でも、直せなかったんですよ。ただ、これは、ネの音とは違う。これは、なぜそうしなければならないのか分からなかったからなのだ。ゆっくり叩いている分には、手の角度をずらしたほうが叩きやすいのだ。でも、それではダメなのにはわけがありまして。それが今日やっと分かったんですわ。速く叩く時に、手の角度をずらしていたら速く叩けないんですよ。手の角度はそのままで手首を回転させるだけで打つからこのフレーズは速く叩けるのだ。なるほど、と腑に落ちて、ようやく、直せるようになった。
う~ん、結局、こうやって、自分が頭で納得しないと直せないんですよねぇ・・・本当は、体で探りながらやっていけば、師匠の叩く叩き方が一番叩きやすいカタチだって、分かって、自己修正できるはずなのに。そうやって体で感じて自己修正できるようになればいいんですけど・・・今、ようやく頭での概念モードから切り離され始めたばかりなので、まだそこまではすぐには達せれない。そのうち出来るようになればいいな。
一応、体で感じて自己修正するモードには入りつつある。例えば、今日の課題であるゲラナガパターンのバリエーション。これを練習する時、ちゃんと体がコントロール出来ているかどうかを一番の念頭に置きながら練習できるようになりまして。それで、体の動きが気持ち悪いのなら、なぜ気持ち悪いかを考える。それで、叩き方を修正していくっていう練習ができるようになってきたんですよ。
いや、以前も、叩き方を修正していくやり方はやっていたんですけど、その時は、体に聞くんじゃなくて、音ばかりを気にしていた。例えばナの音。音を頼りに修正していくと、正しさがどこなのか実は非常に分かりにくいんですわ。大体、どれが正しい音なのかもわかってないし。だから、迷いまくってた。そして、正解に辿り着けなかった。そこへ行くと、体に聞くやり方は、分かりやすい。体が一番負担のない形がベストなカタチだからだ。
で、こうやって練習をしていって、体がシックリこない箇所があれば、そこだけフレーズを抜き出して練習する。そういえば、似たようなフレーズがあったよな、と思って過去のフレーズに戻ってそのフレーズも合わせて練習してみたら・・・当時は、出来たつもりになっていたそのフレーズが、まだまだ全然叩ける状態になってなっていなかったことが判明して愕然とする。いや、ホント、バックトゥベーシック。マジで1からやり直さねばならない感じだ。
ということで、テテテテゲゲテテパターンをやり直したのだが、テテテテが全然上手く叩けないんですよ。昨日師匠に指摘されたテテパターンがまだ出来るようになっていない。テテパターンは、それこそ、第一回目の初日に習ったパターンなのに。で、これをちゃんと叩けるように、昨日師匠に言われたことを頭に入れつつ、体に聞きながらあれこれ模索していったら・・・肘を動かしつつも手首をメインに動かし、手首の引き上げ時に力を入れて叩くべしで、打面に当てる時には指先に力をいれること、という、まさに師匠が言い続けていたことに辿り着いちゃったんですよ。まぁ、そりゃそうだ。師匠が言っていることがベストな叩き方なんだから、そこへ辿り着くのは当たり前といえば当たり前。
で、ただ、カタチだけだとまだ違和感がある。そのカタチで叩き続ける練習をして、そのカタチで叩く筋肉をつけることで、違和感が消え、スムーズに叩けるようになるのだ。って、これも、師匠が最初から言っていたこと。これを毎日30分叩き続けろというのは、師匠が口酸っぱく言っていたことだったんですわ。
が、新しいフレーズを知ることばかりに気をとられていた解脱前のオイラは・・・やらなかったんですよねぇ、師匠が言うことを。解脱後の今、その練習の意味は痛いほどよくわかる。っていうか、これをやらないから、いつまでたっても太鼓が叩けるようにならなかったワケで。あの時、ちゃんとやっていたら、テテテテゲゲテテパターンを習った時も、もっと早くに習得できただろうし、今、こうやって「実は出来てないじゃん」って悩むこともなかっただろう。
上手くなりたいって思っていて、上手くなるやり方まで教わったのに、その上手くなるやり方はやらなかった、というこの悲劇。というか、上手くなるやり方だよって教わったやり方が、上手くなるやり方だって、気づけない当時の自分が浅はかだった。実は、これに気づくのが修行においては一番難しいのだ。そして、これに気づくことが、修行の一番のポイントでもある。ヴィパサナにおいて「ロープを見てロープだと思うのがダンマではない、ということに気づかないと、その後の修行が上手くいかないのと同じ。
というのも、修行って、それまでできなかったことが出来るようになりたいって思って始めるワケじゃないですか。で、それまでできなかったのは、<それが出来ない原因となっている、ある固定概念にとらわれている>からなんですよ。それが取り払われないと、いくら時間をかけても上手くならない。なぜなら、上手くなれないやりかたをそのまま実践しちゃっているから。
オイラは、ほんと、ずっとこれをやってしまっていた。いい先生に巡り会えていたのに、その教えを、上手くなれないやり方で、やり続けてしまったのだ。
どの師匠も、上手くなるやり方を教えてくれていた。でも、オイラ自身が、それが上手くなるやり方だって、気づけなかったのだ。なぜ気づけなかったのか・・・そういうことに気づけない生き方をしてきちゃったからだ。で、大事なのは、そういうことに気づけるようにならないといけないってことなのだ。
それには、長い時間がかかる。タブラ修行をやり続けることで、そういうことが薄々分かってきた。で、そのタイミングで、気づきの瞑想であるヴィパサナをやったから、よりそのことが明白になったってワケなのだ。オイラ的には、ヴィパサナは抜群のタイミングでやれたと思う。
気づきが起こるのは、なにもヴィパサナだけじゃない。大失敗ってのも、気づきを与えてくれるものだ。昨日日記に書いた宇宙兄弟の名言は、まさにそういうこと。でも、それ以外ののほほんとした安穏とした生活では、気づきが起こりにくいってのが真実。これまでのオイラの人生、あまりにも安穏としていたため、気づかずに、いろいろやってこれちゃった・・・ってのが、物事の殻を破りたいと思っていたのに、破れなかった要因であったんだろうと、今思う。
旅、もそうだ。うまくいくようにやってきたけど、いろいろ気づけたのは実は上手くいかなかった時。自転車や、荷物を盗まれた時とか・・・
今、気づいた後のやり方で、テテの練習をしている。上達できていること実感できる。これを第一回目の修行の初日からやり続けていたら・・・4か月の修行期間でどれだけ上手くなれていたんだろうと思う。
でも、そういうことじゃないのだ。この4か月は、そういうことに気づく修行期間だったのだ。太鼓が上手くなる修行期間じゃなかった。太鼓を通じて、そういうことに気づける自分に作り替えていく期間だったのだ。ただテクニックを習いさえすれば上手くなれる・・・これが大きな勘違いだったのだ。そのことにやっと気づけた。
太鼓が上手くなる修行は、これから。そう、やっと、<太鼓>の修行が始まる。
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