Awakening
ついに覚醒/タブラ修行114日目

2015.12.21 / India(Varanasi) 本日 自転車0km走行 : Total 57751km走行
天気:晴 ネット:1
朝飯→サンドイッチ 昼飯→師匠宅でカレーランチ 夕飯→スパニッシュオムレツ / 宿→Joti Cafe(ダブル300ルピー)

(English)
I stayed in Varanasi.



 バラナシに戻ってきて、第二回目のタブラ修行をやりはじめ、前回分からなかったことが次々と見えてくるようになった。ヴィランビットやチャクラダール、ペシュカルなどをやることで、インド古典音楽でのタブラの役割、今習っているフレーズがどのように使われるか、などなどが見えてきたのだ。また、カイダなど大きな流れのリズムとは別に、ちょっとしたフィルインや、ライブだけで使う特殊な叩き方なども、ちょくちょく教えてもらって、ようやくライブでタブラをどうやって叩けばかっこよくなるのか、なども分かってきた。これはこれで、大きな前進。毎日基本的に一つずつではあるが、新しいフレーズが増えるため、やり続けることで、多くのフレーズを知ることができたし。

 でも、その一方で、いつまでたってもちゃんと叩けない自分がいた。高速フレーズのレーラとか全然無理だし。で、二回目のタブラ修行では、ヨガの影響があり、体が動かないから、いつまでたってもちゃんと叩けないんだと判断し、とにかく手が動かせるようにストレッチ運動を取り入れた練習もやりはじめた。飯を食べている間などは、テーブルの上で手をちゃらちゃら常に動かすなどして。

 ヴィパサナ修行の最中も、タブラは一度も触れなかったのだが、手の運動だけはやり続けていた。本当はこういうのもやっちゃいけないんだけど。

 で、ヴィパサナ修行後、気(集中力)コントロールの術を身につけ、タブラを叩く時もまず体のコントロールからやる叩き方に変えた。これで、一層、体が動かないから叩けないということを再認識。第二回目でやってきたストレッチ運動をもっと精度よく改良し、トレーニングを続けてた。

 その結果、結局精度よく改良したトレーニングってのが、師匠が最初から教え続けてくれていた「これを毎日練習しろ」というフレーズだってことに気づいたりして。

 で、改めて、それをやるようになって数日、今日、突然覚醒できた。いきなり<ちゃんと叩ける>ようになったのだ。きっかけは、今日習ったガットカイダNo.1のティハーイだった。「ティハーイはちょっと速めに叩くとかっこいい」と師匠が教えてくれたので、自分の限界だと思っていた速さ以上の速さで叩いてみたんですよ。すると・・・なんと叩けるようになっているじゃないですか。

 ふおお、これこれ、この感じ。調子にのって他のフレーズもやってみたら、他のフレーズも速く叩けるようになっている。しかも、これまで単発でしか叩けなかったこれらのフレーズをつなげて叩くこともできるようになっている。

 いやぁ、感動の瞬間だったな。しかし、そんな最高の瞬間に限って、映像に押さえていない。ええ、本当に押さえておくべき瞬間って、ビデオは回せないものなのだ。気分的にそれどころじゃないから。

 「みんないきなり速いフレーズを叩きたがるんだ。そして、速い叩き方の極意ばかりを聞きたがる。でも、そんなものはない。フレーズをゆっくりちゃんとした型でしっかり叩く練習していけば、そのうちオートマチックに速く叩けるようになるものなのだ。ただ、そのうちっていうのが、長い時間かかるんだけどな」

 と言っていた師匠の言葉の意味がようやく実感できましたわ。ピアノが上達するにはゆっくり弾くべし、とかこの手の上達方法は、ネットとか見れば書かれてあったりして、それは実は本当のことなんだけど、なかなかちゃんとこれをやれない。あまりにも地味で愚直にやり続けなければならないからだ。それよりも手っ取り早く上達する方法があるのではないか、と逃げてしまうのだ。本当はそんな方法はないのに。

 ヴィパサナで、ガッツリ腰を据えてやることを経験したのもデカかったかも。1日中瞑想をしてたからね。これ以上ガッツリ腰を据える経験なんてない。あれがあったから、再開した第二回タブラ修行後半戦は、前半戦以上に、<できないこともやり続ける>という姿勢で取り組めた。前半はまだどこかに逃げの気持ちがあったし、自分で本気で探る姿勢も希薄だった。さらに、体を動かすのに必要な、<気のコントロール>という術を持っていなかった。

 これらを身につけ、タブラ修行に取り組み始めたので、一気に覚醒できたんだと思う。師匠の教え方は、ヴィパサナ的ではあるので、ヴィパサナに行かずに続けていても、いずれ覚醒することにはなっていたんだろうけど・・・ヴィパサナがそれを早めてくれた。太鼓じゃないのに影響するってのは・・・やはり、昨日の日記に書いたように、覚醒に必要だったのは、太鼓の修行ではなく、太鼓を叩くのに必要ないろんなことに気づくことだったのだ。

 この部分はホントに大事なのに、なかなか教えてもらえない。いや、教えてもらえる機会はあっても、自分が逃げちゃうのだ。自由という現代社会の風潮が、逃げる自分を許してしまう。結果的に、ホントに大事なことをずっと掴めない状態に陥ってしまうのだ。

 オイラの人生のモヤモヤはコレだったんだと思う。

 結局、日本が住みずらいとかそういうことじゃなく、自分が無意識に逃げてしまうことで、わざわざ苦しいところに自分を追いやっていたのだ。

 ずっと敷かれていたレールに乗っているのが嫌になって、とか旅の動機を思っていた部分があったのだが、そうじゃないってことにも気づいた。体を動かさない生活に、体が悲鳴をあげていただけだったのだ。

 何をやっても中途半端とか、リアリティがないとか、そういうことも全てこの大事なことから逃れ続け、欠落してたからだったのだ。

 自転車に乗りたいのに、自転車に乗る方法を書かれた本ばかり読んでて、実際には自転車には一度も乗らなかった感じ?

 いやぁ、ホント、やっと<太鼓の修行>が始まるよ。そんな新たな気持ちになって習ったのは、ガットカイダNo.2のディントゥラディンタパターン。これまでの規則的なパターンとは違って、変化に富んだ面白いフレーズだ。新たな気持ちをスタートするのにふさわしいフレーズ。

 あ~、ここだ。ここまでこれたら、やっと独り立ちできるんだ。って、いや、こういうのは、やっぱり自分では分からないのだ。出来たとか、これが一区切りだとか。その瞬間はそう思っても、登り続けてみたら、全然出来てなかったり、一区切りでもなかったりする。結局、一生ずっと登り続けるしかないんですわ。

 こうやって太鼓を習うのは、旅中だから出来ているって思ってた。でも、実はこういう修行と旅の相性はあまりよくないってことに気づいたり、旅が終わっても、やろうと思えばいくらでもやれるってことに気づきまして。なにより、人生にちゃんと指針となる<師匠>っていう存在は必要だって実感したんですよ。こういう存在を持たずに、自分でやっていけるとか過信しちゃうから、迷いのドツボにはまっちゃうんですわ。








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