Different from the others
インドが他の国と違って特別なのは/タブラ修行118日目

2015.12.25 / India(Varanasi) 本日 自転車0km走行 : Total 57751km走行
天気:晴 ネット:1
朝飯→サンドイッチ 昼飯→師匠宅でカレーランチ 夕飯→エッグフライドライス / 宿→Joti Cafe(ダブル300ルピー)

(English)
I stayed in Varanasi.



 今日も11時からレッスン。カタゲゲタゲディナという昨日習ったフレーズの続きから始まり、今日もフィーリングを重視した教え。今日は細かいフレーズ編だ。ドラムでいうところのフィルインにあたる。以前トゥクラとして同じようにフィルイン的なものを習ったが、今回のはそれよりももっと細かいフレーズ。ホント、リズムにちょっとした変化を加える効果を与えるものだ。ただ、これがあるのとないのでは大違い。それこそ、フィーリングが全然変わる。

 ムクラとモハーラという名のついたフレーズも教わった。ネットでタブラのフレーズのことを調べていた時、この名称が出てきて気になっていたのだが、説明を読んでも一体どういうものだか分からなかった。それが、師匠に習ってようやく理解できた。

 さて、その後、個人練習をやりつづけたのだが・・・今回のは、基本的にティンタールをベースにしている。が、オイラ的には、このティンタールの基本パターンがまず、しっくりきていないのだ。それは<ナ>の叩き方が相変わらずつかめていないというところに原因がある。相変わらず悩んでいたら、師匠がまた、実践して見せてくれた。今回は、別の角度からビデオを撮ってジックリ見て研究しろ、と。

 で、師匠の叩く様子をジックリ研究した結果、ようやく分かったんですわ。今度こそわかった(笑)オイラの手首の角度が間違っていたんです。師匠と同じように叩いていたつもりだったのだが、微妙に違っていた。で、この違いは、微妙だが、大変重要な違いでして。このせいで、全然ちゃんとした音が鳴らせなかったんですよ。ま、原因はもう一つあって、人差し指に力を入れていなかったってことがあったんだけども。

 いやぁ、ようやく、スッキリしたよ。って思うのは、また一瞬なんだろうけども。

 でも、やっていることに違和感を感じたら、それを修正するという心構えにはなってきた。以前は、違和感を感じつつも、ひたすら間違ったままやり続け、気合でなんとかする、というタイプだったんです、はい。

 ついでといか、今回のムクラのフレーズを叩いていると、どうもしっくりこないところがあって、それもなんでしっくりこないんだろう、と探求していたら、テテテテの基本的な叩き方が違っていたことに気づいた。いやぁ、ホント、自分の感覚だけでやっていたら、間違いまくり。いかに、これまで、違和感を違和感のまま受け入れて生きてきちゃってたってことですわ。

 さてさて、改めて言うのもなんだが、タブラ修行は、毎日新しいフレーズを教えてくれて、それをやるだけ。これ自体は、これまでやってきた打楽器修行と同じ。が、これまでの打楽器修行とタブラ修行が違うのは、ただフレーズをやるのではなく、<叩くという肉体>を探求することにある。

 そうなんですよ。これなんです。この肉体性に気づけたのがインドに来て見つけた大きな気付きだった。インドがオイラにとって他の国と違うところは、身体性を再認識させてくれたところなんです。

 ヨガにしろ、ヴィパサナにしろ、身体性を強く意識させられるものばかり。ヴィパサナなんてその最もたるものだった。

 で、実は、これがオイラが日本を飛び出した理由だったんだって、最近自覚しまして。日本にいた時は、ホント、体を使わなくなっていた。朝から晩まで机とパソコンにただ向き合うだけの仕事をしていて、休日もやることと言えば、映画鑑賞。たまに、バンドの練習があり、唯一そこで身体性を感じれるのだが、それも、肩こりすら感じられなくなってしまったカチコチの体でやるのだから、身体性が存分に感じられるはずもなく、また、上達もしない。

 それが悪いことだなんて自覚すらなかった。仕事は楽しかったし、映画も面白いモノばかりだった。何不自由なく、お気楽な生活が送れていたので。

 でも、なんかモヤモヤしたものを感じていたのですよ。そのモヤモヤの正体がなんなのか、分からなかったのだが、石田ゆうすけさんの<行かずに死ねるか>がキッカケとなり、お気楽生活から飛び出すことになる。

 最初は、レールのひかれた人生をただ歩むことが退屈だったからさ、なんて思っていたんだけど、そういうことじゃなかったのだ。

 あまりにも使わなくなっていた身体が、危険信号を発していたのだ。

 旅当初はそのことに無自覚ではあったけども、自転車旅をチョイスしたのは、身体の悲鳴を深層心理的には聞こえていたからだったんだと思う。身体性を使う自転車は、すっかり使わなくなってしまっていた身体を再び使うようにするには、最適なパートナーだった。

 だから、旅に出てだいぶスッキリした。自転車で走り回る旅がただ、楽しかった。が、本人が、無自覚だから、自転車以外の生活では、体を使わない。日本でやっていたパソコン作業をそのままやり続ける生活をずっと送っていた。で、そうすると、再びモヤモヤが発生する。日記書きも、ビデオ編集も、ネットサーフィンも、やっている分には楽しいのだ。が、心の奥で、何かがこういうことじゃないって、叫ぶ。

 旅を続けて6年目。ずっとそのことに無自覚で、旅は楽しいのだが、モヤモヤが完全には晴れていないオイラの心が、ちょっと軽くなってきたのは、初代のパソコンがおかしくなってきてからだった。パソコンの調子が悪いから、パソコンを開く機会が減ったのだ。結果、作業に時間をとられることがなくなった。その時は、ああ、ワーカホリック状態がいけなかったんだ、って思ったんだけど、そうでもなかったのだ。

 インドで、ヨガ→タブラ→カレー修行→タブラ→ヴィパサナ→タブラとやってきて、ようやく、自身の肉体性を取り戻してきて、ああ、これがモヤモヤの原因だったのか、って気づけた。

 たぶん、旅中、インドでなくても、このことに気づくチャンスはいくらでもあった。メキシコ、キューバ、パタゴニア、アフリカ(特に西アフリカ)・・・オイラが心洗われた地は、肉体感で溢れていた。現代的な社会ではないところに魅了されたのは、彼らが、頭で生きるんじゃなくて、肉体で生きている感じがしたから。オイラは潜在的にそれを求めていたのだ。

 でも、どれも、単発でしかそれらを感じれなかったから、オイラの中に定着できなかったのだ。その点、インドは、何をやっても肉体性を強制してくるから、肉体性に自覚的にならざるを得ない。結果として、身体性を取り戻せることになった。

 レールの上を歩むだけの人生でも別にいいのだ、ワーカホリックな人生でも別にいい、映画やネットやゲームにハマるのも問題ではない。ただ、それによって、動かなくなり、身体性が失われていってしまうのが危険なのだ。

 よく、「運動しなさい」って言われるじゃないですか。確かに、運動することはいいことだと思う。動かないより動いたほうがまし。でも、運動するにしても、ちゃんと身体性を自覚しての運動じゃないと、意味はない。

 レベル1、レベル2を彷徨っていた時、オイラは、ゆっくりした練習が嫌いだった。それは楽器を叩いていても、頭で叩いていたから。頭では叩けたことに出来ちゃうのだ。理解すればいいから。それは意外とすぐできる。だから、ゆっくりした練習をやり続けろと言われても、できたって思っているから、やる意味が分からない。が、一方、本当の意味で身体性を自覚して、体で叩き始めると、ゆっくりした練習が楽しくなる。カラダはすぐに出来るようにならないからだ。できないところを体に聞きながら、ゆっくりと練習する、そして次第に体で分かるようになるのが、至高の喜びとなるのだ。これが、生きている実感につながる。

 野球をやってた時、素振りを毎日1000回やれ、と言われてた。柔道をやっていた時は、打ち込みを毎日1000回やれ、と言われてた。ドラムをやっていた時は、教則本にスティックを交互に叩く練習を一日1時間やり続けろって書いてあった。

 最初はやるんですけど、頭で考える人間だったので、やり続けられなかったんですよ。そんなにやらなくても、出来るよって思っちゃってたんですよ。カラダは出来てないのに。結局、身体性を自覚していないと、運動しても、やっていることが、身につかないのだ。やっても、面白くないんだよねぇ、っていうのは、体に無自覚だからだ。

 体に自覚的になれば、ラジオ体操すら面白くなる。っていうか、ラジオ体操ってのは、高度に身体性のことを考えられたもの。これが、面白くない、そこに面白さを見いだせないっていうのが、そもそも問題なのだ。

 世界でなくても、日本にも、オイラのモヤモヤを解消する手段はあった。世界でも、インド以外にも、オイラのモヤモヤを解消する手段はあった。

 が、インドほど、その手段ばかりをやらされる場所は、そうそうない。それがインドが他の国と違って特別になってしまった理由だ。まぁ、特別になったのは、オイラにとってってこと。しかも、旅の終盤にインドを訪れたオイラだから。オイラがそういうモノを受け入れる心になってきたタイミングでインドに来たからってのがデカい。










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